コラム

COLUMN:

木を見る西洋人、森を見る東洋人

以前、「木を見る西洋人 森を見る東洋人(リチャード・E・ニスベット:著)」を読んだ。

東洋人と西洋人では、世界の捉え方や思考のあり方がどのように異なり、なぜその違いが生まれるのかを、心理学的な研究をもとに考察した本である。古代ギリシアと古代中国における哲学や世界観の違い、その背景にある社会構造、西洋的な自己観と東洋的な自己観の違い、さらには世界を名詞の集まりとして捉えるのか、動詞や関係性の集まりとして捉えるのかといった言語上の差異まで、比較的幅広い観点から論じられている。

西洋人には一見理解しにくい東洋的な思考の背景をたどりながら、人間の認知や思考が、文化や社会環境によってどのように形づくられるのかを明らかにしようとしている書籍だ。

タイトルだけを見ると、少し単純化された文化論にも見えるけど、内容は地に足がついていた印象だった。扱っているのは「西洋人と東洋人は何が違うか」という話というより、「人は世界をどう認識しているのか」という認知の話だったと理解している。

本書の中では、西洋人は対象そのものを切り出して捉える傾向があり、東洋人は対象同士の関係性や文脈を含めて捉える傾向があると語られている。

例えば、水槽の映像を見せる実験で、アメリカ人は「大きな魚がいた」と中心の対象を記憶しやすい。一方、日本人は「水草が揺れていた」「小さい魚が周りにいた」と背景や環境込みで記憶する傾向があるらしい。同じ映像を見ていても、何を先に認識しているかが違うというのが興味深い。

西洋では古代ギリシア以来、対象を分類し論理的に整理する思考が強く発展した。一方、中国思想では物事を関係性や変化の中で捉える傾向が強かったという。

読んでいると、自分自身の経験にも思い当たる部分がかなりある気がする。

例えば宗教美術の違い。キリスト教絵画ではキリストや聖人といった主体が明確かつ具体的に描かれる作品が多い。一方で、仏教の曼荼羅は一人の人物というよりも、仏や菩薩の配置や関係性、全体像を通して世界観・宇宙観そのものを表現しているように見える。もちろん単純に比較できる話ではないが、本書で語られる「対象を見る思考」と「関係を見る思考」と、繋がっているようにも感じた。

また、何かを説明するとき、日本人は場の空気や前後の流れから話し始めることが多い。逆に欧米圏の人は結論や対象を先に置くケースが多い。

そもそも英語は文法的にも主語を明示し、何について話しているのかを最初に示すことが基本になる。一方、日本語は主語を省略できる・することも多く、相手と共有している文脈の中で意味が成立している場面も多い。結論を最後まで言わなくてもなんとなく伝わることもある。

もちろん、それだけで西洋と東洋の思考の違いを説明できるわけではないが、本書で語られる「対象を見る認知」と「関係を見る認知」が絵画や言語の構造にも表れているように思えるのが興味深い。

普段、僕たちは誰かと話が噛み合わないとき、私たちはそれを性格や価値観、説明能力の違いとして捉えがちだ。

けれどこの本を読んでから、そもそも同じものを見ていても「認識している単位そのものが違う」のではないかと感じられるようになった。例えば、一方は対象を見ていて、もう一方は関係を見ている。一方は結論を求め、もう一方はそこに至る文脈を共有しようとしている、といったように。

つまり、意見が違うのではなく、意見が生まれる前の段階ですでに世界や認知の切り取り方が違っている。もちろん、西洋人と東洋人をきれいに二分できるわけではないし一人の中にも両方の見方がある。それでも、自分が何を見ているかだけでなく、何を背景として見落としているかを意識することには意味があると思う。

木を見ることと、森を見ること。重要なのはどちらか一方を選ぶことではなく、自分が今どちらの見方に偏っているのかを知ることなのかもしれない。人は世界をそのまま見ているのではなく、文化や言語、社会の中で自然に身につけた見方を通して世界を見ているのかもしれない。

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