2026.08.22
インターネットの外側でのみ、大事な話をする
僕は昔のインターネットが好きだった。知らないことを調べているうちに、ギークでディープな世界へたどり着く。個人がつくった小さなウェブサイトや、名前も知らない誰かが書いた文章を読み、そこから本や音楽、思想や文化、サブカルに出会った。当時のインターネットには、世界の奥へ深く潜っていくような感覚があったように思う。
昔のネットが今より高尚だったわけではない。当時もくだらないモノも、攻撃的な言葉も当時から存在していた。ただ、それでもインターネットは何かを知りたい人が自分の意思で情報を探しに行く場所だったように思う。
今のインターネットは当時と比べると少し違う。自分が情報を探す前に情報側からレコメンドされてこちらへやってくる。過度な推奨やまとめだけでなく、分断も可視化される。誰かが怒り、誰かが失敗し、誰かが断罪されていたりする。遠く離れた国で発せられた差別的な言葉さえ、自動翻訳によって瞬時に目の前へ運ばれてくる。
今回のワールドカップ中も、国籍や人種をめぐる罵倒を見ることになった。日常の小さな出来事を投稿しただけの人に、会ったこともない誰かが悪意を向けている。本来なら知らなくてもよかった怒りや対立まで、毎日大量に目に入ってきてしまう。
もちろん、インターネットが社会を悪くしたとは思っていない。これまで見えなかった問題が可視化されたことや、効率化された社会システムが構築できた点は明らかな価値がある。声を持てなかった人が発信できるようになり、国や組織を越えて知識を共有できるようにもなった。
しかし同時に、対立が可視化されるだけでなく、対立そのものが流通・再生産しやすい構造も生まれた。冷静な説明より強い断定。複雑な背景より短い結論。理解するための言葉より反応させるための言葉。多くのプラットフォーマーにとっては、私たちが深く理解することよりも「長く画面を見続ける」ことのほうが重要だからだ。
NetflixもYouTubeも、InstagramもXもTikTokも、広い意味では私たち生活者の可処分時間の奪い合いをしている。サービスを無料あるいは安価に提供し時間を獲得する。その時間の上に広告、課金、購買、継続利用を積み上げる。
これは善悪というより、現在のデジタルサービスを支える経済構造なので、使う側にもある程度の意思や自制が必要になる。気づけば小一時間が消えていたという経験を繰り返しているうちに、一つの当たり前をあらためて考えるようにもなる。
そもそも、人生の時間は有限だ。子どもと過ごす時間。家族や友人と話す時間。知らない街を歩く時間。料理を食べる時間。働く時間。何もせず考える時間。画面の中では次のコンテンツが無限に現れるし再度再生できる。しかし、現実の時間は一度過ぎれば戻らない。
そして最近、もう一つ思うことがある。
本当に大事なことは、ネット上であまり話さなくなってきていて、リアルで大事な人にしか話さないようになっている。(相対的に、僕の中ではリアルの場での価値が高まっている。このコラムも、正直なところ大胆な仮説や断定、感情は出しづらい)
短い投稿には背景や文脈をすべて載せられない。発言は切り取られ、意図から離れ、知らない人の価値観によって評価される。対話のつもりとして書いた言葉が、いつの間にか賛成か反対かを判定する材料に変わっていく。
特に未完成な考えや矛盾を含む感情、人との関係に深く結びついた話やまだ結論の出ていない問いなどは、不特定多数に向けて投稿するよりも信頼できる相手と同じ場所で話したほうがよいことがあると感じている。コロナ禍には、多くの人がインターネット上で発信し、つながりを求めた。しかし、その反動として「より閉じた関係」や「同じ場所で同期されて交わされる対話」へと重心を戻す流れは、今後10年ほど続くのではないかと思う。