2026.04.11
言葉に丁寧な人。言葉に誠実な人
言葉を丁寧に扱える人でありたい。そして、言葉に誠実な人でありたい。
「言葉が雑なのはよくない」という否定的な立場ではなく、どういう態度で世界を捉え、どう他者と関わりたいかという自分なりのスタンスに近い。
そもそも言葉は「思考の拡張や深度」を助ける。何を見て、何を感じ、どこまで、どう考えたのか。それら思考の輪郭は、最終的に選ばれた言葉の中に残る。だからこそ言葉と向き合い、できるだけ丁寧に扱い、誠実な言葉を残していきたい。
昨今、生成AIの進化によって、文章や画像作成のハードルは大きく下がった。僕自身も仕事でもプライベートでもAIなしの生活が考えられないくらい、それに助けられている。
しかし一方で、生成AIで作られた文章をそのままコピペしただけの資料や投稿を見ることも増えた。正直、あまり頭に入ってこないし、心に響かないことも多い。生成AIを補助的に使うことは問題ない。ただ、そこに本人の思考の輪郭が見えてこないことや、頭に汗をかいていないことはある程度見抜けてしまう。
最近では、「AIはこう言ってます」「AIに聞いてみました」と前置きしつつ、AIが書いた文章をそのまま送ってくる人もいる。知りたいのはその人自身の意見や意思だ。仮にAIの文章を引用するにしても、そこに自分の考えが添えられているだけで、伝わる安心感や信頼感は大きく変わる。言葉に対して、雑で誠実でない印象にも見える(言葉だけでなく他者との関係やコミュニケーションが雑にも見える)。
ここで言う雑さは、テキトーさやガサツさといった態度だけの話ではない。
例えば「かっこいい」「すごい」「やばい」といった言葉についても同じだろう。もちろん、会話は一定程度「リズム」でするものなので、日常会話でこの言葉を使う分には全く問題ない立場だ。(すごい、やばい、いいね、は会話のリズムを取るのに超便利だと思う)
ただ、感情を丁寧に残すための文章や、意思を伝える提案資料では、やはり言葉の選び方が問われる。本来なら掘り下げられるはずの感覚や意図、文脈をひとまとめにしてしまうと、表現の解像度はどうしても下がる。
言葉は、思考の解像度そのものだ。
雑な言葉を使えば、大まかな理解のまま物事を通過させてしまう。「なんとなく良い」「多分問題ない」という判断が積み重なっていく。もちろん、スピードが求められる場面等では、あえて雑に判断することも必要だし、僕自身もそれを使うことはある。
それでも、特にデザインの仕事においては、言葉に丁寧で誠実である必要性を強く感じる。デザインは感覚の仕事と言われるが、その感覚を他者と共有し、判断して形にしていくためには、言葉から逃げることはできない。
確かに、デザインは美しいビジュアルや強いノンバーバル表現で伝えることもできる。ただ、多くの人が関わるプロジェクトでは、最終的に人を動かすのは言葉だと感じる。何がどう良いのか、どこに違和感があるのか、なぜ成立しているのか。なぜやるのか、どこに向かうのか。感受性や感性は、言葉にしようとした瞬間に鍛えられる。語彙がなければ、感覚は曖昧なまま発散してしまう。
的確に表現する力は、生まれつきの才能ではなく、トレーニングの積み重ねだ。「かっこいい」で終わらせずに、「どの要素が、どんな文脈で、どう作用しているのか」を言葉にしてみる。うまく言えなくても構わない。言葉にしきれない感覚と向き合う時間そのものが、感性を育てる。
言葉に誠実であることは、ただ優しくあることとは違う。分からないことを分からないと言うこと。事実と感想、事実と仮説を混ぜないこと。自分の立場や前提を、言葉の中にきちんと残すこと。そうした姿勢の延長線上に、言葉への誠実さがある。
しかし、忙しいときや焦っているとき、スピードを求められるとき、言葉はすぐに荒れる気がする。それでも、できれば一度は問いを持てる余裕を持ちたい。この表現は本当に今の感覚をすくい取れているだろうか。この言葉で思考を終わらせていないだろうか。この言葉は、意思を未来に運ぶ力を持っているだろうか。
言葉に丁寧で、言葉に誠実な人でありたい。
それは正しさを主張するためでも、他人を評価するためでもない。ただ、世界をもう少しだけ細かく見ていたいし、その見え方をできるだけ正確に伝え、残したい。そのための態度として、これからも言葉に対して丁寧で、誠実であり続けたいと思う。