2026.07.25
FIFAワールドカップの配信から考える、デジタルプロダクト産業と国際競争力
2026年のFIFAワールドカップが終わった。日本代表はグループステージを突破したものの、ノックアウトステージ初戦でブラジルに1‐2で敗れた。2002年、2010年、2018年、2022年に続き5度目の挑戦でもノックアウトステージの初戦を越えることはできなかった。戦術や選手起用、監督のマネジメント等については既に多くの専門家が発信しているので、今回は別の角度から考えてみたい。(個人的には戦術の話もしたいがここでは一旦我慢…)
2026年大会では日本代表戦を中心に地上波でも試合が放送された。一方、大会全104試合を継続して追うには実質的にDAZNが唯一の選択肢であり、DAZNは日本代表戦を含む全試合をライブ配信した。
僕も期間中はDAZNを契約したが、正直なところ満足できる視聴体験ではなかった。再生が安定しない場面があったり、アプリの導線や情報設計にもストレスを感じた。特に退会に至るまでの一連のジャーニーは、いわゆるEvil(エビル:邪悪な)なUX設計だったと思う。XやThreadsを見る限り、同じような不満を感じた人は多かったはずだ。
さらに大会期間中にDAZN Soccerの「月額980円」という訴求も問題になった。実際には途中解約できない年間プランを契約され、最初の3カ月のみ月額980円、その後は月額2,600円となり総額は2万6,340円だった。DAZN自身も「一部月額プランと受け取れる記載」があったとして謝罪している。
そんな混乱と批判の中で思い出したのが、2018年のロシアワールドカップでNHKが提供していた「2018 FIFA ワールドカップ」というアプリだ。サッカーファンから「神アプリ」と評価されていたアプリで僕も当時感動しながら利用していた。
このアプリは無料で利用でき、NHKが地上波で中継した32試合をライブ配信し、全64試合の見逃し視聴にも対応していたのだが、優れていたのはそれが無料だったことだけではない。
ピッチ全体を俯瞰できる戦術カメラ、スタジアム上空を移動するワイヤーカメラ、両チームの選手や監督を同時に映す4分割映像など、テレビ放送とは異なる複数の映像をユーザー自身が選択できた。ゴールなどの重要な場面では、複数のカメラ映像から好きな角度を選ぶこともできた。テキスト実況のイベントを押すと、その瞬間の映像へ移動し別のカメラから同じプレーを見直すこともできた。
ボール支配率、シュート数、パス精度、走行距離といったスタッツデータも映像とほぼリアルタイムで連動していた。試合日程や順位だけでなく、選手プロフィール、開催都市、スタジアム情報、ニュース、ハイライトまで一つのアプリに統合されていた。
当時、このアプリを見て「これは日本の会社が作ったものじゃなさそう…」と感じた。映像配信、リアルタイムデータ、複数カメラ、タイムライン、インターフェースが高い精度で統合されていて、国内の典型的な受託開発型アプリには見えなかったからだ。端的に言うと、当時この完成度のアプリを作れる会社は国内でぱっと思いつかなかった。
「神アプリ」は誰が作ったのか。改めて調べてみた。
その中心にいた可能性が高いと考えられるのが、イタリアのスポーツテクノロジー企業「deltatre」である。公開情報からは、同社が開発したと確認できる資料は見つからなかった。ただ、FIFA / HBSとの関係、deltatreが保有する技術基盤、機能的な類似性を踏まえると、deltatreが開発または基盤の提供に関与していた可能性は高いと考えている。
FIFAと大会のホストブロードキャスターであるHBSは、少なくとも2014年大会の時点で、deltatreなどの技術事業者と連携し、各国の放映権者向けにスマートフォンやタブレット用のセカンドスクリーン技術を提供していた。HBSは現在も、放映権者ごとにブランドをカスタマイズできるデジタルサービスや、ユーザー自身が視点を選択できるマルチアングル体験を提供している。
さらに、deltatreの動画プロダクト「DIVA」は、映像と試合データを同期させるオーバーレイ、タイムライン上のイベントへの直接アクセス、フォーメーション、戦術、パス、走行距離、速度などの表示、複数カメラからの映像選択といった機能を備えている。これらは、2018年のNHKアプリが提供していた体験とかなり近い。
運用、日本語へのローカライズ、国内向けの配信制御や監視などについては、NHKの関連会社や国内の開発会社が担っていたのかもしれない。一方で、あのアプリの完成度を支えていたのは、個別機能の実装だけではなく、映像、データ、API連携、配信基盤、フロントエンドを含むアーキテクチャ全体の設計だったのではないかと思う。
deltatreは1986年にイタリア・トリノで設立された。F1の計時や放送グラフィックスから事業を始め、UEFA、FIFA、オリンピックなどの大規模スポーツイベントを通じて、データ、映像、グラフィックス、ウェブ、アプリ、OTTの技術を蓄積してきた。これまでの顧客やパートナーには、NFL、NBA、MLB、BBC、ATP、UEFA、UFCなどが並ぶ。一般的なアプリ開発会社というより、スポーツの視聴体験そのものを産業化してきた会社と捉えるべきだろう。
同社の強さは同じ技術基盤を異なる大会、放送局、リーグ、デバイスへ繰り返し展開してきたことにあるのだと思う。一度のイベントごとにゼロから作るのではなく、映像、データ、タイムライン、CMS、マルチアングル、認証、課金などの機能をプロダクトとして蓄積し、次の案件でさらに改善していく。
2018年のNHKアプリが、一カ月程度の大会専用アプリでありながら異常なほど完成度が高かった理由もおそらくここにあるのだと思う。あのアプリは一回限りの受託開発によって突然生まれたのではなく、世界中のスポーツイベントで長年改善されてきた技術と知見が、NHKとワールドカップというブランドの下に集約されたプロダクトだった可能性が高い。
ちなみに、2022年のカタール大会ではABEMAが全64試合を無料で生中継し話題になった。当時は200億円規模の投資とも報じられておりABEMAにとって相当な賭けだったはずだ。(ABEMAは開局以降、多額の先行投資による赤字が続いていたことでも話題になっていた)
日本対ドイツ戦が行われた日には、1日あたりの視聴者数が1,000万人を突破した。見逃し配信やハイライトも無料で提供し、心配されていた大規模な同時アクセスを処理しながら、独自解説、コメント機能、試合スタッツなどを組み合わせた観戦体験を実現していた。
率直に「ABEMAすごい…」と感じた出来事だった。日本にも大規模なスポーツ配信を設計 / 開発 / 運用し、一定水準以上のユーザー体験として成立させる力がある。そのことを明確に示した事例だったように思う。
2026年において、ABEMAのUXは国産動画配信サービスで一番使いやすいと思っているが、LeminoやU-NEXT、TVer、FODなどは正直使いづらく、特にLeminoは大規模なライブ配信時の体験は最悪だ。ここで思うのは、日本が弱いのは「個々の開発力やデザイン力」そのものではなく、スポーツやエンターテインメントに特化した技術とUXを継続的に再利用できるプロダクトとして蓄積し、複数のリーグや放送局に展開し、さらに海外へ販売していく産業構造なのではないか。
日本では、大会やキャンペーンごとに予算が組まれ、広告代理店等がプロジェクトを管理し、開発会社やデザイン会社が個別の要件を実装する。しかし、大会が終わればチームは解散し、サービスは提供終了となる。そこで得られた技術や知見も、発注者、元請け、開発会社、デザイン会社の間に分散し、次のプロダクトに十分に継承されない。
結果として、優れたプロジェクトは生まれても、それが再利用可能な技術基盤や知的財産として蓄積されず、継続的な事業には育ちにくい。日本に不足しているのは、単発の大型案件を成功させる力ではなく、案件を重ねるたびにプロダクトと企業そのものが強くなっていく仕組みなのだと思う。
しかし、deltatreのような会社はその逆を行っている。案件を受託するだけでなく案件を通じて自社の技術基盤と知的財産を強くする。データの扱い方、視聴行動、試合中の操作、配信負荷、権利管理、収益化までを一つの専門領域として蓄積することで、次の大会では前回よりも高度な体験をより短期間で提供できるのだろう。(皮肉なことに、deltatreは、同社のOTT技術によって2016年のイギリスでDAZN立ち上げを支えたとされている)
同じように高度な技術基盤を使っていたとしても、料金体系、契約導線、コンテンツ編成、運用、顧客対応といったプロダクト上の判断を誤れば、ユーザーが受け取る体験全体は悪くなる。技術の優劣と、サービス体験の優劣は、必ずしも一致しない。
デジタルプロダクトの品質は画面の美しさやアプリの安定性だけで決まるものではない。権利、ビジネスモデル、データ、技術、デザイン、カスタマーサポートまでを、誰がどのような思想と責任のもとで一つの体験として統合するのか、その総合的な設計によって決まるのだと思う。
日本のスポーツ産業やエンターテインメント産業を強くするためには、海外のコンテンツや放映権を買い、国内向けに流通させるだけでは足りない。リーグ、放送局、配信事業者、広告会社が、デジタル上の視聴体験そのものを競争力の源泉として捉え、継続的に投資していく必要があると思う。
そのサプライチェーン上にいる開発会社やデザイン会社も、与えられた仕様を実装するだけの受託会社に留まっていてはいけない。特定領域に関する知識と経験を蓄積し、自社のプロダクトや技術資産を持ち、発注者に対して体験設計や事業モデルまで提案できる存在へと変わっていく必要がある。
僕たちが愛するスポーツやエンターテインメントの熱狂を、一時的な配信やキャンペーンで終わらせず、世界で繰り返し使われるプロダクトと持続的に成長する産業へ変えていけるだろうか。日本代表が何度も跳ね返されてきたノックアウトステージの壁と同じように、この領域にも「まだ越えられていない世界との壁」があるように思う。