2026.03.28
人生は増えているのか、減っているのか
朝起きたとき、人生は増えているのだろうか?それとも、減っているのだろうか?
そう問われると、たしかにどちらが正解だろう。どちらか一方では説明しきれない、議論が生まれたりするのは「いい問い」の証拠だろうと思う。
人生が増えているのか減っているのかは、どこを基点にするかで捉え方も変わる。
例えば、誕生日を起点にすれば人生は一日ずつ増えていくし、心の中で「今日も一日、生きた日が積み重なった」と捉える人にとっては、人生は増えていると感じるかもしれない。しかし一方で、命日を起点にするなら人生は一日ずつ減っていく。終わりに向かって徐々に人生が少なくなっていくという感覚だ。
特に若い頃は、時間が尽きるという感覚そのものがあまりない。1日や1年が長く感じるし、有り余る体力もあるので気合いで時間が作れてしまう。かつて自分もそうだったのでよく理解できる。漠然と「時間がある」前提で、日々の小さな判断や生活が積み重なっていく。
けれど、ある瞬間からその基点が徐々に変化することがある。
例えば、身近な人が亡くなったとき。急に死が現実味を帯びてきて、人生は「増えている」というより、「減っている」もののように感じられる。終わりがあるという感覚が、一日一日の重さを変える。人は終わりを意識すると、人生は減っていると感じるようになるのかもしれない。
また、ライフステージの変化や、家族が増えることで時間の感じ方が変わることもある。
例えば、小さな子どもにとって時間は明らかに増えている。昨日できなかったことが今日できるようになり、ひと月ごとに身体も表情も変わっていく。その成長を見ていると「一日が増える」という感覚が、これほど具体的なものだったのかと思わされることもある。
一般的には、40歳くらいを基点にして、「減っている」と感じる人もいる。
平均寿命をちょうど半分を過ぎたあたりから、時間や人生が減っていくもののように感じ始めたりすることがある。無意識のうちに「人生の折り返し地点を回った」と捉えているのかもしれない。
それに、40歳という年齢は、身体的な変化や社会的責任の増加とも重なりやすい。体力のピークを過ぎた実感、キャリアの方向性がある程度定まり始める感覚、子供の成長、親の老いを意識する場面。そういった複数の要素が重なることで、「これからどれだけ積み上げられるか」よりも「あとどれだけ残されているか」という意識が強くなってくるのだろう。
この問いを考えている時にイメージしたのは砂時計だった。
砂時計には、これから落ちていく砂とすでに落ちた砂がある。一日が終わるたびに上の砂が少し減り、下の砂は同じ分だけ増える。「総量」は変わらないまま、砂が上から下に移動しているだけの状態のイメージだ。
砂時計と違い、人生では下に積み上がる砂がどんな要素でできていくかを、ある程度は自分の意思や生き方で選ぶことができる。
惰性で積み上がったものか、焦りや不誠実さから生まれたものか、それとも誠実さや自分の納得できる判断・倫理に基づくものか。そうした「何でできているか」を自ら選び取れることが、人生の面白さであり、同時に難しさでもある。
反対に、誰もが同じ積層を重ねていく人生は、無気力ではあるが、どこか気楽にも見える。その人生が面白いかどうかは分からないが、個人的には退屈に感じる。
人生は減っているのか、増えているのか?改めて問いに答えてみる。
少なくとも自分は、「失った時間」に目を向けるのではなく、「これまで積み上げてきたもの」や「大事にしてきたこと」に目を向けたいと思う。人生は増えていると捉えたい立場なのだろう。そしてこれから「積み上がっていくもの」にも誠実に向き合っていきたい。
それは、自分の子やまだ見ぬ次の世代、そして未来の社会や環境へと「受け渡されていく砂」になるのだろうと思う。
人生の時間はたしかに減っているのかもしれない。しかしながら、積み上げるものも確実に増えていく。小さな優しさや愛、知性や倫理を少しずつ積層させながら。そして、それらを少しずつ次の世代に受け渡してく連鎖こそが、人生や歴史の重なりであり輪廻のようなものになるのではないだろうか。