コラム

COLUMN:

コンセンサス消費。消費の金融市場化

コンセンサス消費。これは既存概念ではなく、僕自身がこのテーマについて考える中で便宜的につくった言葉だ。

少なくともこのコラムを書いている2026年5月末時点で、Google検索してもヒットしない。僕がつくった言葉なので当たり前ではあるが。

ここでは、コンセンサス消費 (Consensus Consumption)とは、「多くの人が価値あるものだと認めているものを、自らも価値あるものとして選び、消費する行動や態度」として使いたい。

ロレックスやエルメス、クロムハーツ。最近、それらについての話を聞いていると違和感を覚えることがある。

もちろん、みんなそのブランドが好きなのだと思う。ストーリーやクラフトに惹かれる人もいるだろうし、単純にデザインが好きな人もいるだろう。

以前はもっと話題や好みに多様性があったように思う。しかし最近は同じようなブランドの、同じようなモデルについてみんなが話題にする。そしてなにより、その会話の中に以前はあまり聞かなかった種類の言葉が自然と混ざるようになった。

「また値上げするらしい」「今のうちに買っておいた方がいい」「資産価値が高い」「これは投資だから」「リセールバリュー」

最近、こんな言葉を耳にする機会が増えた。

高級品に価格の話が付きまとうこと自体は昔から変わらない。しかし最近のそれは少し性質が違うように思う。

そのモノがいくらで売られているかではなく、そのモノが将来どれくらいの価値を維持するのか。あるいは、どれくらい値上がりする可能性があるのか。そうした話が以前よりも自然に、ごく当たり前に行われるようになった。

これは、ロレックスやエルメス、クロムハーツだけの話ではない。

ポルシェ911 GT3、タルガ、メルセデスのGクラス、オーデマピゲやパテックフィリップ、ヴィンテージリーバイスやカルティエ。一部のヴィンテージ家具やアーカイブファッション。

カテゴリーは違っても、そこには共通する構造がある。人々はモノそのものを買っているようでいて、資産価値を買っている。その背景には、グローバル化とインターネットの成熟があるのではないか。

かつて価値観や消費は、もっと地域的で個人的なものだった。

東京で評価されるものとミラノやパリ、ニューヨークで評価されるものは必ずしも一致しなかったし、ある都市で熱狂的に支持されている店やブランドが、別の場所ではほとんど知られていないことも珍しくなかった。

国際都市間でのズレ、都市と地方、地方と地方での微妙なズレ。固有の趣味や価値観とは、そうしたズレの中に存在していた。

例えば1990〜2000年代。横浜のローライダー、大阪のジャパレゲ、名古屋のギャングスタラップ、京都の電子音系サウンド。地域によってカルチャーが微妙に違い、同時期に違うスタイルや価値観を生んでいて、それが魅力的だった。

音楽やスタイルだけでなく、誰も知らない古臭い喫茶店が好きだったり、無名の作家の器を集めたり。市場や他者に評価されているかどうかとは別に、自分自身の感覚で価値を見つける余地が今よりももっとあったように思う。

しかし今は少し状況が違う。

Instagramを開けば、東京でもソウルでもロンドンでもニューヨークでも、似たようなブランドや店の情報が流れてくる。SNSが悪いと言いたいわけではない。ただ、その結果として世界中の人々が同じものを見て、同じものを欲しがり、同じものを価値があると認識するようになったことは間違いない。

世界中の都市で「MATCHA LATTE」が流行っていること、少し前だと世界中の都市でスペシャリティコーヒーの店がいっせいに増えた。ここ5〜10年にランニングカルチャーとそのランシューブーム(On/HOKA/Salomonなど)も世界の都市文化としていっきに普及した。

加えて、そこに二次流通市場の成長が重なった。

BCGなどのレポートでも指摘されているように、ラグジュアリー領域の二次流通市場は新品市場を上回るペースで成長している。かつて中古市場は裏側の市場だった。しかし現在の二次流通市場は、世界中の需要と供給を接続し、価格を可視化する巨大なインフラのような存在、ある意味で既に表市場化している。

以前であれば、そのモノが将来いくらになるのかは一般大衆からしたら分からなかったが、今は違う。過去の取引履歴も可視化され、価格推移も見える。つまり、モノの価値は以前より数値として認識されるようになった。

それらの結果として起きているのは、「消費の金融市場化」なのだろう。

「世界中が価値があると認めている」こと自体が価値になっている。まさに金融市場と似た構造だ。金融市場における資産の価値は、それを良いものだと信じる人がどれだけいるかによって決まる。

本来、趣味や美意識というものは、市場の評価から少し距離を取るところから始まるものだったように思う。たとえば、誰も評価していないものを面白がること、自分だけの基準で価値を見出すこと、世間の評価と少しずれた場所に立つこと。そうした行為そのものが趣味の面白さだった。もちろん、今もその価値観は一部で残っているが、以前よりもシュリンクしているように感じる。

金融市場化した消費においては、市場が先に価値の答えを出してくれる。何が良いのか、何が価値を持つのか、何を買えば損をしない、あるいは得をするのか。世界中の評価がリアルタイムで可視化され、それが価値として表示される。

おそらくこの15年程度だろうか。いつの間にか、モノの価値も金融市場化した。価値があるから人が集まるのではない。人が集まるから価値が生まれる。市場が価値を承認し、その承認がさらに価値を強化する。本来は文化や趣味の領域にあったものまでが、「資産価値」という言葉や文脈で語られるようになってしまった。

失敗や損をする可能性が低いことは、間違いなく合理的な選択だ。しかし同時に退屈さも感じる。コンセンサス消費の世界では、価値判断の基準が均質化していくからだ。結果として個人の観察や発見よりも、市場で形成されたコンセンサスのほうが影響力を持つようになる。

人は自分の審美眼でモノを選ぶのではなく、市場の評価を参照しながら選ぶようになる。実際、「何が良いかを考える」よりも、「何が良いとされているかを確認する」行為へと、人々の価値観や消費が徐々に変化しているように思う。

街を歩いて偶然見つけた店よりも、世界中で評価されている店。自分のお気に入りの食事ではなく、レビューで高評価されている食事。自分だけが惹かれるモノよりも、誰もが価値を認めるモノ。個人の審美眼よりも市場価格。

誤解のないように言っておくと、僕はコンセンサス消費そのものを否定したいわけではない。価値とはある程度、相対的なものであり、僕自身も他者の評価や社会的な文脈を参照しながらモノを選ぶことはある。

ただ、その比重が大きくなりすぎたことで、文化としてどこか味気なく感じてしまう。

コンセンサス消費の世界においては、個人の観察や発見よりも、市場のコンセンサスが優先される世界になる。

少なくとも僕には、その風景が少し退屈に見えてしまう。

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