コラム

COLUMN:

“ ハーフの子を産みたい方に。 ”

銀座の呉服店が掲出していた、

「ハーフの子を産みたい方に。」

「ナンパしてくる人は減る。ナンパしてくる人の年収は上がる。」

という広告が、数年後に発掘され大きな批判を浴びた。最近、この話題がまたSNS上で取り上げられているのを見たので、遅ればせながらこの話題に触れてみたいと思う。

この広告はすぐに「不適切・差別的・下品」と指摘され炎上した。2019年の7月頃、コロナ禍に入る前の出来事だったと記憶している。

当時、その炎上をSNS上で観測していたが、議論の多くは「言葉の是非や、呉服店、広告代理店、コピーライターへの批判」に集中していたように思う。そして、時間が経つことで徐々に鎮火していった。

当時の僕も「気持ち悪い表現だな」「自分も表現は気をつけよう」と思ってはいたが、忙しさなどもあり、この問題を細かく分析はしていなかったので、改めてこの話題に触れて分析してみたい。

まず、どんな批判があったか。

海外にルーツを持つ人々や、着物文化を大切にしてきた人々から、「人を血統や見た目で価値化している」「着物を異性獲得の道具にしている」という強い反発が起きた。これは正当な指摘だと思う。僕も完全に同意だ。特に広告という公共空間で「人間の身体や生まれを欲望の対象として言語化」したことに明確な危うさがある。

しかしながら、このコピーがまったくの虚構だとも言い切れない。社会には確かに「西洋的な容姿への憧れ」や「高収入のパートナーを望む感情」が存在している。アパレル企業は、ほとんどの場合西洋的な容姿のモデルを配置するし、高収入のパートナーを望む感情は、街角インタビューでもマッチングアプリ等でも可視化・構造化されている。昭和や平成の時代から、ドラマや映画などでは、その価値観は当たり前に可視化されていた。

その価値観自体を否定することは、現実から目を背ける行為だろう。この広告だけでなく、ライフスタイルメディアや雑誌、ドラマや映画、そしてテレビ。似たような価値観を、似たような言葉で流通させているシーンはこれまで何度も見たことがある。

では、なぜこの広告だけが「強い拒絶反応」を引き起こしたのだろうか。

大前提として、そもそも広告とは、社会に散らばった欲望や価値観、潜在ニーズ等を、短い言葉や分かりやすいビジュアルに凝縮し可視化する装置だ。しかし、このコピーは、「多くの人を傷つける可能性のある表現」と「価値観を誇張している」点があり、結果として人々から強い拒絶反応がうまれたのではないだろうか。

具体的には、「ハーフ」という表現が、海外ルーツを持つ人を傷つけたり(日本人が当たり前に使う「ハーフ」という表現はグローバルではあまりよくないこととされる価値観がある)、産まれてくる子供に対して「見た目の期待」をしているというルッキズム的思想。

そして、劣った選択肢として暗に位置づけられている日本人男性、着物文化や文化人の立場からすると異性獲得のツールとして着物や日本文化が扱われた感覚・消費された感覚など、多様な視点や立場から違和感を感じる言葉になっていたのだと思う。

また、仮に「西洋的な容姿への憧れ」は社会に実際に存在する欲望だとしても、その憧れを「子どもを産む」という性的で動物的な行為に直結させて、誇張された点も問題だろう。

個人の感情や嗜好のレベルにあったものが、生殖や身体をイメージできる形で表現されてしまった。結果として強い「気持ち悪さ」を生んだのだろう。

そして、それを許さない「正しさ」の醸成も社会的に強化されていたように思う。この広告も掲載されたのは2016年だが、実際に炎上したのは3年後の2019年だ。

COVID-19前の、特に2015年〜2019年の5年くらいにかけては、#MeTooの日本への波及、企業のコンプライアンス強化、多様性やDEIがかなり一般化し、徐々に企業や社会制度や文化が変わっていったタイミングだった。

社会が急速に成熟したというより、「正しさ」をめぐる感度や感性がシャープになった結果なのだろう。しかし一方で、現在のネット空間では、許容される価値観と排除される価値観の線引きが厳しくなり、その判断や断罪が一方的にくだされる。多様性が語られる一方で、「正しくない」と見なされた場合、議論の余地なく切り捨てられることも多い。

本来、多様性とは、心地よい価値観だけを集めることではない。異なる考えや不快さを含んだまま、摩擦を避けず、歩み寄ったり落とし所の境界線を探る営みのはずだ。今回の広告は、その難しさを露呈させた一つの事故だったとも言える。

この事例から学ぶべきなのは、「何がアウトか」をリスト化したりすることではないように思う。

重要なのは、広告やデザインをつくる側の視点だけで欲望を単純化していないか、そしてその単純化を、公共性に耐えうる言葉に翻訳できているかという問いを、制作の最初と最後に、そしてクライアントも制作側も持つ必要がある。

特に広告やメディアには、今ある価値観や欲望を増幅させる力がある。その強い影響力を前提にした慎重さと、異論が表に出る構造を組織の内側に持てているかどうかが問われている。

あの広告はコピーライター個人の失敗や、広告主の呉服店の失敗として単純化してはいけないと思っている。

社会に存在していた欲望、異論や違和感を指摘できなかった組織(広告代理店や呉服店)の同質性、そして「正しさ」をめぐる空気が社会に醸成され、それが点と点で交差した瞬間で起きた現象だった。その構造を捉えず、表現だけを切り取って断罪しても、おそらく同じ問題は形を変えて繰り返されることになるのだろう。

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