コラム

COLUMN:

商店街は本当にイオンに潰されたのか

ここ最近、たまたま宇都宮と岐阜の商店街に足を運ぶ機会があった。

少子高齢化や都市の空洞化はデータとしてよく理解しているつもりだけど、実際の風景として目の前に広がると、想像以上に衝撃があった。シャッターが下りたまま、昼間でも人通りの少ないアーケード、まばらにいる人はほとんどが高齢者。時間帯の問題では説明できない静けさがあった。

普段、都内で生活していると感覚がどこかバグってくる。駅は常に人で溢れ、保育園の送り迎えやベビーカーを押す家族連れも多く、実際に子どもの数も多い。実際、全国で唯一、東京都は出生数の増加になった自治体だ。若い人、外国人、元気な高齢者。この環境に慣れていると、人口減少や少子高齢化はどこか遠い話になってしまう。

しかし、実際に地方の商店街に立つとその前提が崩れる。カルチャーも含めた広い意味で、次の世代の気配が明らかに薄く感じる。数字上で理解していたはずの少子高齢化も、風景としてハッキリと可視化されると、あらためて考えさせられる機会になった。

芸大でデザインや建築、都市計画を学んでいた頃、僕たちは一定の共通言語を持っていたように思う。

例えば、大型ショッピングモール。イオンのような郊外型モールは「アメリカ型資本主義の象徴」とされ、地域性を破壊する存在として扱われた。一方で商店街は、ローカルコミュニティの核であり、人間的な距離感やスケールを保った都市のあるべき姿。そして、商店街はイオンのようなアメリカ型資本主義の象徴によって衰退した。そうした立場や主張に、当時の僕も間違いなく同意していた。

しかし、社会に出て時間が経つにつれ、その見方に違和感を感じるようになった。地方に行けば行くほどたしかに商店街は衰退している。だがそれは、本当にイオンに潰された結果なのだろうか。

最近読んだ商店街論の中で印象に残ったのは、衰退の原因を外部ではなく内部に見出す視点だった。多くの商店街では店主の高齢化が進み、商売はすでに生業ではなくなっている。過去の成功体験や不動産収入、年金によって生活は成立し、店は「稼ぐため」ではなく「居場所」として続けられている。その結果、商業地であるはずの空間は更新されず、新規参入者が入りづらくなり街は老いていく。

これは誰かの悪意や怠慢というより、構造の問題なのだろう。

高度経済成長期から安定成長期にかけて、日本は長く供給不足の時代にあった。そのなかで商売に成功し資産を築いた世代が、人口減少と高齢化の時代にそのまま移行した。社会のニーズが徐々に変わる一方で、商店街は「変わらないこと」を前提に時間を過ごしてきた。

一方で、イオンのような大型モールはどうだろうか。

彼らは、車社会、核家族化、高齢化、温暖化、グローバル化といった生活構造や環境の変化に徹底的に適応してきた。広い駐車場、清潔で明るく涼しい室内、広々したトイレ、子どもや高齢者にも優しい設計、グローバルブランドの飲食やサービス。そこにあるのは、徹底した生活者目線だ。もちろん、それが都市にとって最適解かどうかは別の問題だが、少なくとも選ばれる理由は明確だろう。

実際、子どもがいるとイオンのような大型モールはとても助かるし、最近では高齢者が猛暑対策で散歩の目的地としてイオンを選ぶことも珍しくない。

地方の商店街は衰退したが、都内ではいまも多くの商店街が活気を失わずに残っている。若者が入り、人や店が入れ替わり、古い店と新しい店が混在する。そこにはノスタルジーというよりも単純に流動性がある。商店街が生き残る条件は、理念や情緒ではなく、人の密度と流動性なのだろう。

こうして考えると、「商店街かイオンか」「どちらが悪いのか」といった問いの設定が違うように思う。都市は感情で維持されるものではない。残酷だが単純に人がいなければ縮み、衰退する。一方で、世代や店舗の流動性が上がり人が増えれば、都市や商店街は繁栄する。

僕は、イオンが商店街を壊したのでも、商店街の態度が街を壊したのでもないと考えている。少子高齢化と都市の空洞化、そしてライフスタイルの変化によって、徐々に機能を失い始めていた都市構造を、イオンがただはっきりと可視化しただけではないだろうか。

僕たちは、その残酷な変化を正面から引き受けることなく、「地域」や「文化」、「コミュニティ」や「人間らしさ」といった言葉で包み込み、判断を先送りしてきていたような気がする。ノスタルジーや情緒のような普遍的な価値観で、変化を受け入れてこなかっただけなのかもしれない。その結果として、サービスもハコモノも変化していない空間が、いまも街の顔として残り続けている。

問われているのは、「どちらが悪か」ではない。
変わらないことを前提にしてきた空間を、人口減少の時代において、これ以上「街の顔」として扱い続けるのかどうか。残酷かもしれないがその判断そのものが、少子高齢化時代の世代の僕たちに突きつけられている問いなのかもしれない。

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