コラム

COLUMN:

類似性と相補性。好きな人と嫌いな人、虫が好かない人。

昔から、人の好き嫌いにいい意味で少し鈍いところがあった。誰とでもそこそこに付き合えたし、内気な子から学級委員長や生徒会長タイプ、体育会系、やんちゃ系、不思議系アーティストタイプまで幅広く接してきた。

純粋に偏見がなかったというのもあるし、他人の好き嫌いの評価に振り回されないようにどこかで意識して振る舞っていたのかもしれない。余談だが、僕は食べ物の好き嫌いも一切ない。大人になって、食べ物でも人の好き嫌いも、意外と多い人がいることに驚いた。好き嫌いの少なさは、おそらく小学校高学年〜中学生くらいから、感覚的に内省しながら意識的にトレーニングしていたようにも思う。

そもそも、人はなぜ理由もなく心惹かれる人がいたり、逆に、理由もないのに苦手に感じる人がいるのだろう。見た目や話し方だけで「この人とは合わないかも」と感じることもある。

人が誰かを好きになったり、苦手に思ったりする理由には、心理学でいう「類似性」と「相補性」という考え方があるらしい。簡単に言えば、「自分と似ているから惹かれる」のが類似性、「自分にないものを持っているから惹かれる」のが相補性だ。たとえば、同じ故郷の話で盛り上がれるのはわかりやすい類似性だし、自分にはない感覚や性格に惹かれるのは相補性だろう。

特に出会って間もない頃には「類似性」が強く作用するらしい。共通点があるだけで、ぐっと距離が縮まる。まだ相手の深い部分を知らないからこそ、表面的な一致が安心感を与えてくれるのだろう。一方で、長く付き合っていく関係では「相補性」の方が大事になってくるという一定の根拠が存在するらしい。同じだけでは退屈になってしまうし、違いがあるからこそ学び合えるし、補い合える。恋人やパートナーが正反対の性格でうまくいくことが多いというのも、そうした相補性のはたらきかもしれない。

けれど、これらはいつもポジティブに働くとは限らない。ときには、自分に似すぎているからこそ腹立たしく感じることもある。無意識のうちに、自分の弱さや欠点を相手に見てしまい、それが鏡のように自分を映し出してしまう。一方で、あまりに異なる価値観や振る舞いに出会ったとき、それを面白いと感じられればいいけれど、拒否反応のような感覚が先に出てしまうこともある。

とはいえ、最終的には僕たちはどこかで折り合いをつけて生きていく。「この人のこういうところは少し苦手だけれど、それを補って余りある魅力がある」と思えれば、関係は続いていくし、逆なら自然と離れていく。そんなふうに、類似と相補、好きと嫌いのあいだを行き来しながら、人との距離感を手探りしているのだと思う。

もし苦手な人がいる場合はどうするか?

できることがあるとすれば、それは自分の感情を少し引いて見つめてみることだろう。なぜこの人にこんなふうに感じるのか。どんな部分が反応しているのか。そうやって自分の内側を少し分解してみるだけでも、人との関係は少しやわらかくなる気がする。

そしてもうひとつは、あえて苦手な人の長所に目を向けてみること。関心を向けてみること。そうして少しでも歩み寄ったとき、関係が思いがけずほぐれることもある。

「虫が好かない」という言葉がある。なんとなく気に食わない・嫌いという意味の言葉で、特に理由はないけれど「生理的に受け付けない」「好きになれない」というニュアンスで使われる。

この言葉が表すように、日本語というのはおもしろい。自分が誰かを嫌う原因を「虫」のせいにしている。つまり、自分のなかに棲む「嫌いな虫」(嫌悪の感情や抑圧された側面)が、相手と出会うことで刺激され、見せつけられる。その結果として「好かない」という感情が生まれる。

人の好き嫌いは、複雑な感情が絡み合っているので正確に掴むのは難しい。むしろその感情の奥にある揺らぎや仕組みに丁寧に目を向けてみることで、人との関係と、自分自身の心の輪郭が、すこしだけ見えてくるのかもしれない。

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