コラム

COLUMN:

「わかる」と「できる」

デザインでも、戦略でも、ブランドでも、頭の中では理屈を語れる。でもそれがどの程度まで自分の血肉になっているのかは、案外自分ではわかりにくいものだ。

能力開発にはよく「知る」「わかる」「できる」「教える」という4つの段階があると言われる。

単に知識として頭に入っているのが「知る」。理屈や構造を分解して理解できるのが「わかる」。それを現場やプロジェクトで実践し、他者が見ても価値を感じるアウトプットに変えられるのが「できる」。最後に、それを誰かに伝え、相手の中にもう一度その理解を構築するのが「教える」だ。

以前働いていた会社での話。あるメンバーがデザインやビジネスのフレームワークを調べてきて、プロジェクトに利用しようとする姿があった。しかし、複雑な状況のプロジェクトの中で、それをどう組み込むかとなると、その人の手はあまり動かない。頭では「わかる」になっていても、「できる」には届いていない状態だったのだろう。その違いを埋めるのは結局、自分の手と頭と身体を動かしながら、小さな失敗を何度も積み重ねるしかない。

面白いのは、僕自身もまた「教える」プロセスの中で、最も自分の学びを痛感するということだ。チームメンバーに考え方やプロセスを説明しようとすると、曖昧に認識していた部分が見えてくる。

誰かに教えたり伝えようとすると、自分の理解の甘い部分が露呈するので、あらためて整理したり、あらためて調べたりすることもあったりする。

原研哉さんは『デザインのデザイン』の中で、デザイナーは受け手の脳の中に情報の構築を行っているのだと言った。「教える」という行為はまさにそれで、相手の脳の中にひとつの建築を一緒につくっていくようなものだ。だから一番成長するのは、教える側の人間なのだとも思う。

話を戻して、そもそも、「知る」から「わかる」へは、書籍を読んだり講座を受けたり、人の話を聞いたり現場を観察したりすることで、ある程度までは到達できる。

特に賢い人は「知る」→「わかる」のプロセスが速く、頭の中にある程度、抽象化・構造化されたものができて、物事の大枠の構造や関係性が見えてくる。

しかし、次の「わかる」から「できる」は思いのほか長い。そのキャズムを超えるには、必ず一定のトレーニングが必要になる。実際に手を動かし、身体を使い、現実に触れてみないといけない。そうすると理屈や教科書で学んだことが、実際はその通りにはいかない場面にもぶつかる。その中で、試行錯誤を繰り返すうちに、頭ではなく身体感覚として独自の感覚が育っていくのが「できる」の状態だ。

そして「できる」から「教える」は、また質の違う飛躍だ。自分の中で閉じていた理解や身体感覚を、他人にどう伝えるか。伝えたものが本当に相手の中で機能するか。相手の思考のタイプに応じて、事例を変えたり、説明の仕方を変えたり、よりシンプルなフレームワークにしたり、言葉の使い方や表現を変え、進め方を変えてみたりする。「教える」という行為は、いつも自分自身により深い思考を問い直す難しい作業だと感じる。

自分の理解を他者に伝えようとすると、その構造や判断の根拠を言語化しなければならない。その過程で、見過ごしていた矛盾や飛躍が浮かび上がってくる。さらに相手の問いや反応に応じて説明の角度を変え、言葉や例を置き換えていくうちに、自分の思考そのものがもう一度組み直されていく。そうした負荷によって理解はより磨かれ、「できる」という状態に厚みが生まれる。

個人的には、「わかる」と「できる」はリニアな概念ではないとも思っている。むしろ何度も行き来しながら、螺旋を描くように深まっていく関係性だ。ときには「わかる」からすぐに「教える」に跳び、説明の中で自分の理解の穴に気づき、そこから再び学び直すこともよくある。あるいは手を動かして失敗し、そのたびにわかり直し、気づけば「できる」に近づいていることもある。

抽象は実践の中で具体になり、具体は再び抽象へと戻り、統合される。その往復の中で理解は立体化し、厚みをまして、身体に染み込んでいくようなイメージだ。つまり「できる」とは、単に理解が深くなった状態ではなく、理解と実践と伝達を何度も循環させた結果として拡張されるものなのだろう。

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