コラム

COLUMN:

ながく残る、いいデザインのことを考える

母親が乗っていた古いトヨタのランドクルーザー・プラドを、今でもよく覚えている。子どもだった僕にとって、角ばった大きな車体は小さなバスのようで、それだけで楽しかった記憶がある。ドアを閉めるたびに響く重たい音、シートに座ったときに少し高くなる視点。いつもと違う世界を見ているようで、その時間が少し特別に感じられた。派手さはなかったけれど、その静かな存在感がなぜか心地よかった。

芸大でデザインを学び始めた頃から、ずっと頭のどこかに「いいデザインとは何だろう」という問いがある。もちろん、時代に合わせてアップデートを重ねることにも意味はあるし、移りゆくトレンドを眺めるのも嫌いではない。
けれど、そんなの変化の波の中でも、静かに時間や時代の移り変わりに耐え続けるデザインがある。今日は、そうした変わらない強さを持ついくつかのいいデザインを紹介したい。

柳宗理が1956年にデザインした「バタフライスツール」は、その典型ではないかと思う。一見すると彫刻のようにも見えるが、実際に座ると自然にお尻を受け止め、どの角度から見ても端正で上品な姿を保つ。単に「かたちが美しい」だけの椅子ではなく、人が座り、使い、空間の中に置かれて初めて完成する道具だ。

実際に持っている人ならわかる、軽やかさと強度のバランスの妙がある。加えて、椅子にもスツールにもオットマンにも変化するし、本や鞄を置いても様になる。見る角度を変えるとプロダクトのもつ微妙な表情の違いを感じられるのも特徴だ。

榮久庵憲司が1961年にデザインしたキッコーマンの「しょうゆ卓上びん」も同じことが言える。大きさ、丸み、赤いキャップ、注ぐときの小指の添え方まで「どう使われるか」を考え抜いた結果で、今なお年間300万本以上が出荷され、累計ではおよそ1億本を超えているとも言われる名品だ。家の中でも商店でも、昭和な空間からモダンな空間でも馴染む安心感と必然性がある。

バックパッカーとして世界を歩いていたとき、どの国を旅しても必ず目にしたのが HONDA の「スーパーカブ」だった。埃っぽい未舗装の道端、市場の前、街の路地。古い型であっても、擦り傷や色褪せを味として纏いながら、大切に使われ続けている姿を何度も見かけた。

スーパーカブは1958年に登場して以来、2017年には累積生産台数が1億台を突破している。その長寿を支えているのは、整備のしやすさ、部品の流通性、そして多少乱暴に扱われても壊れにくいという設計思想だ。こうした「壊れにくく、直しやすい」価値は、国や文化を越えて共通の信頼を得る力を持っている。

この構造主義的な耐久性を、武器分野でいうところの AK-47 に例えるのは過剰かもしれないが、背景にあるロジックは重なる。AK-47 は多くの国で、環境・維持条件が劣悪な状況下でも使われ続けてきた。

フィンランドのアルテックが1933年に発表した「Stool 60」もそのひとつだ。誕生から90年近く経った今も、ほとんど形を変えずに作られ続けている。現地では、家庭やカフェの片隅に何気なく置かれ、まるでそこにあることが前提のように空間に馴染んでいる。日本でも愛されているプロダクトのひとつだ。

古びるのではなく、時間とともに場に溶け込み、空間を整えていくような印象がある。プロダクトの潔さや思想は、ブランドの物語よりも先に伝わってくる。

ナガオカケンメイさんは「ロングライフデザイン」という概念を提唱し、「デザインには賞味期限があるけれど、いいデザインにはそれがない」と語っていた。

それは懐古主義的な話ではなく、なぜあの形が、あの製品が時間を越えて選ばれ続けるのか。その背景にある思想や、つくり手の誠実さの本質を問う姿勢なのだと思う。

また、Dieter Ramsは「良いデザインは目立たない」と語った。それは自己主張を捨てることではなく、「必要なときには確かな価値を提供し、日常に静かに溶け込む」在り方への評価だと感じている。ロングライフなプロダクトは、時間が経つほどにその価値がじんわりとにじみ出し、人に自然に選ばれ続ける力、空間に馴染む力を持っている。

僕は「いいデザイン」の答えを、もう自分なりに持っているつもりではいる。けれどそれは、声高に語るようなものではなく、いつも生活の中で問い直しながら、時代の変化や自分の価値観の変化と照らし合わせながら、少しずつ確かめていくものだと思っている。

だからこれからも、十年後、三十年後にまた同じ問いを置きながら、短期的な熱狂に惑わされずに、デザインを続けていきたい。その積み重ねの先にこそ、ながく人や空間や生活、文化に寄り添うものが生まれると信じている。

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