コラム

COLUMN:

「なぜ日本人は議論が苦手なの?」と聞かれたので改めて考えてみた

以前、イギリス育ちの友人と話していた中で「なぜ日本人は議論が苦手なの?」と聞かれた。その場では「ディベートの教育を受けていないから」とざっくり答えてしまったけど、自分でも本当にその回答が正しいのか不安になったので、このトピックに対して少し考えてみることにした。

「日本人は議論が苦手」「ディベートができない」と言われることがある。その原因として、協調を重んじる気質や、空気を読む文化やハイコンテクストな言語・文化的側面が挙げられることが多い。確かにそれも一つの要因だろう。しかし実際には、意見が異なる相手を「違う意見を持つ人」として受け止めるのが難しく、「自分とは合わない人」「敵対する人」と短絡的に分類してしまう思考の癖が、根深く存在しているように思う。

日本は論理や事実よりも、刹那的な感情への共感や人間関係の調和を優先する文化なため、「あなたの意見と違う」と言われると、過剰にショックを受けたり、自分の人格を否定されたように感じる人が多い。一方で、欧米では「意見を否定しても人格を否定しているわけではない」という前提が浸透している。むしろ意見がぶつかることで議論が深まり、相互に理解し合えるという考えがある。


日本では意見が食い違うと、それはすぐに個人への評価に結びつき、違う意見を持つ人がどこか面倒な人、場を乱す人のように見えてしまう。そうした雰囲気や文化が議論そのものを避けたり、曖昧にしがちな空気をつくり出しているとも言える。

以前、SNSでのある議論を見かけた。ある人の主張に対して反対意見が寄せられると、その多くは主張そのものではなく「この人はこういう人だから信用できない」といった人格攻撃になっていた。相手を否定・拒否することが議論の目的になってしまい、いつの間にか議題の本質は消えていく。僕たち日本人はつい「意見の違い」を「敵か味方か」という線引きで処理してしまうのかもしれない。

それは、空気を読むことや同調を良しとする文化とも無縁ではない。日本の多くの学校教育でも、「みんなが同じ方向を向いていることが前提」で、それを乱す意見は場の秩序を壊すものとして扱われる。僕も小学生の頃、学校の先生と「反対の意見」を言ったらなぜか教師が突然怒り出したことがあった。

だから異なる視点を差し出す人は浮いてしまうし、孤立を避けるために、多くの人は「黙る」「曖昧にする」「なんとなく同調しておく」という選択を取る。結果として、調和は守られるかもしれないが、多様な意見から産まれる新しい視点が出なかったり、答えのない難しい問題について、深くて慎重な議論がなされないままになることも多い。

そもそも、議論の本来の目的は勝ち負けを決めることではない。特に現代の複雑な問題には、明確な正解がないことが多い。だからこそ、異なる視点や情報を持ち寄って「“現時点”において、より“正しいかもしれない”答え」を探るプロセスこそが重要になったりする。実際に、欧米(特に英米)の教育では小さい頃からディベートを通じて、意見を戦わせながらも相手を尊重する訓練が行われていると聞く。(アメリカやイギリスでは Debate Club やディベートカリキュラムが学校文化に強く根ざしている)

そこでは相手の話を最後まで聞くことや、論点を捉えること、主張の根拠を客観的に示すことが徹底されていて、議論のマナーは「技術」として学ぶものだという前提がある。

日本にはその教育プロセスがない。子どもの頃から「親や先生の言うことを黙って聞く」のが美徳とされ、異議を唱えることは失礼にあたると教わって育つ。そういった古典的な価値観は、最近では徐々になくなってきている気もするがまだまだ根強く感じることもある。

だから大人になって議論の場に出ても、根拠を並べるより「誰が言ったか」「どういう言い方をしたか」「これまでの人間関係や態度」が重視されやすい。結果として、議論は曖昧になったり、論点がずれたり、個人の人格否定や好き嫌いの話に収束してしまう。これは、前述したSNSでもよく見かけるし、政治的に大事な論点でも気付けば人格攻撃や揚げ足取りに論点がズレる。ワイドショーなどもそれを煽ることが多く、そのスタンスはEvilであり悪質だと感じている。(例えば、トランプ氏の政治的な戦略や論点より、トランプ氏の人格についてばかりを議論にしたり、石丸伸二氏の主張や論点ではなく発言や態度、石破茂氏の政治的な評価より食べ方や服装についてばかり取り上げる、といったことだ。確かに2人とも個性や主張が強いため苦手な人も多いのだろうが、表面的な部分や人格の部分で人を叩いてもあまり建設的ではないように思う。時々、それがイジメのようにも見える時もある)

もちろん、感情を大切にする文化が全て悪いわけではない。日本人が持つ「情の深さ」は、別の文脈では人を支え、温かいつながりをつくる。けれどその情が、議論の場では余計な遠慮や忖度を生んでしまうこともある。異なる意見を出し合っても、それで関係が壊れるわけではない。むしろ違う意見がある状況を、互いに抱え続けることこそが議論や対話であり、その先に新しい可能性があるのではないだろうか。僕の好きな「THA BLUE HERB」も「違いを、違いのままにしておく事が、共通点を見つけるヒントだと思うんだ」と囁いている曲がある。

これからの時代、僕たち日本人は「同じ価値観や前提を共有できる人」だけで集まって暮らすわけにはいかなくなるのだろう。そして、どこかで必ず意見の違いにぶつかる。そのとき、違いを排除するのではなく、まず「なるほど、あなたはそう考えるのか」と受け止める。そこからもう一歩、問いを重ねる。そんな小さな試みの積み重ねこそが、建設的にモノゴトを前に進めていくのだと思う。

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