2025.12.12
ムーミン谷から学ぶ、現代への「問い」
僕がムーミンを改めて読み返したのは大学生の頃だった。それまではムーミンを、北欧生まれの愛らしいキャラクターたちの「ほのぼの」とした物語だと理解していた。けれど、学生時代に抱いた漠然とした好奇心や、友達との何気ない会話をきっかけに原作を手に取ってみると、その理解は覆された。
ムーミンの物語はむしろ、どこか怖さを感じる作品だった。静けさの中に、深く人間の存在や生き方に問いを投げかけてくるようで、読んでいて何度も考えさせられる場面があった。
ムーミン作品には、北欧・フィンランドの豊かで厳しい自然環境への「敬意と恐れ」のようなものを感じる。物語の中では、洪水がムーミンハウスを飲み込んで、家具や大切な日常が流されてしまうこともある。それでも彼らはまた集まり、前と同じように食事をしたり語り合ったりして暮らしを続けていく。そんな自然の中で、登場人物たちが怖がったり楽しんだりしながら、自分なりにどう生きるかを選んでいる姿が繰り返し描かれている。
特にスナフキンは特徴的な存在だ。春になるといつの間にかムーミン谷に戻ってきて、秋が来ると当たり前のようにまた旅に出る。昔はその自由さが少し格好よくも、どこかキザにも見えたけれど、今読むと少し切なくも感じる。スナフキンは、自由の輪郭を確かめるように、自分の孤独を受け入れているように思う。誰かと深くつながれば、同じ分だけ小さな束縛も生まれる。スナフキンは自由と引き換えに、孤独を自分で選んでいるのだろう。
ムーミン谷に住む彼らは、それぞれに不安や欠けた部分を抱えている。リトルミイが少し意地悪だったり、スニフがすぐ怖がったりするのも、人間のリアリティを象徴しているように思う。それでも夜になると、一緒に月を眺めたり、コーヒーを飲みながらおしゃべりをしている。その情景に、なんともいえない温かさと人間らしさを感じる。
孤独や不安はそう簡単には消えない。けれど人は、それでも誰かのそばにいたいのだろう。
スナフキンは「大切なのは自分でしたいことを、自分が知ってるってことだよ」と言っていた。それはきっと、欠けたままでも「自分で選ぶ」ことの大切さを示しているのだと思う。気づけば僕もいつの間にかスナフキンに共感するようになっていて、彼の言葉によって作品に引き込まれることが多い。
ムーミンの物語は、不完全なままでも誰かとつながろうとする人間らしい姿や、その迷いや揺れを丁寧に描いている作品だと感じる。
ムーミンは哲学と相性がいい。瀬戸一夫さんの『ムーミンの哲学』では、ムーミンをカントやヘーゲルなどの哲学の文脈で読み解いている。哲学とはそもそも、「なぜ存在するのか」「何が善いのか」「真理とは何か」といった根本的な問いを立て、それを繰り返し考える行為だ。
自然に呑み込まれたり、孤独に泣いたりしながら、それでもまた生きる喜びを見つけて笑う。ムーミン谷の生活は、人間らしい姿を哲学的に映し出している。住人たちは特別な答えを持っているわけではない。ただそれぞれのやり方で、不完全なまま生きている。そして互いに干渉しすぎず、けれど見捨てもしない。その姿勢は、長い目で見るととても人間的で、現代社会で忘れかけていることを思い出させる。
気づけば僕らは、生活のそばにあったはずの「問い」を遠ざけてしまっているのかもしれない。ムーミンを「愛らしい物語」として片付けずに読んでみると、孤独や不安を抱えたままでも、たとえ不完全なままでも、ゆるやかにつながり合おうとするムーミンたちの姿は、分断や孤立が進む今の時代にこそ示唆を与えてくれるように思う。
今の時代だからこそ、ムーミンの物語に隠れた小さな「問い」に、そっと立ち止まってみてもいいのかもしれない。