コラム

COLUMN:

「文化」と「カルチャー」の輪郭の違いを言語化してみる

僕はこれまで、「文化」と「カルチャー」を少しだけ違うものとして扱ってきた。普段の会話でこの二つを厳密に使い分ける必要はないと思っているけど、自分の中では微妙なニュアンスで違いを扱ってきた節がある。それを改めて、きちんと言葉にしてみたいと思った。

そもそも僕がこの違いを意識したのは、デザインやブランドに関わる仕事をしているからだ。「カルチャーをつくりたい」と言うときと、「文化を尊重したい」と言うとき、そのニュアンスが若干違う。打ち合わせや提案書の中で、その使い分けを意図的に選んでいた気がする。

「カルチャー」は、どちらかといえば動的で未完成なものだ。過去より「未来」のイメージ。まだ形を変え続けていて、ある熱量やムーブメントがその中に渦巻いている。サブカルチャーとかポップカルチャーとか言うように、どこか尖っていて、局所的に盛り上がっている印象もある。SNSで突発的に流行る小さなムーブメントや、サードウェーブなどのコーヒーカルチャー、「ととのい」も「推し活」も「カルチャー」の分類に置きたくなる。

一方で「文化」は、もっと長い時間軸を伴っていて、土地や人の営みの中に静かに根づいているように思う。未来より「過去」のイメージ。例えば、同じ料理でも地域ごとに微妙に異なる味付けや、地形や気候から自然と生まれた漁や狩り、調理方法、歴史の中で少しずつ積み重ねられた作法や行事。それらは決して派手ではないし、誰かが意図して盛り上げたわけでもない。ただそこに当たり前のようにあり続け、人が集い、知らず知らずのうちに受け継がれていく。そんな静かな継承の感覚が、僕にとっての「文化」という言葉と結びついているように思う。

もちろんこれは僕自身の感覚の話で、辞書的には「カルチャー」も「文化」も同じ言葉だ。英語でカルチャーと言えばラテン語の「耕す」が語源で、本来は自然に手を加えて育てる、人の行為そのものを指す。それが転じて、人間の知や芸術や習慣、いわば「人がつくるもの」全般を意味するようになった。そう考えれば、文化もカルチャーも根っこは同じだ。

けれど、面白いのはそこから派生した各国語のニュアンスだ。例えば英語のcultureは「教養」や「人格を耕す」という意味を帯びることがあるし、ドイツ語ではBildung(教養)という全く別の言葉が「人間を作り上げる」という意味で使われる。日本語の「教養」には少しフォーマルな響きがあるけれど、それも元をたどれば同じ耕し、育てることに繋がっている。

じゃあ結局カルチャーと文化は何が違うんだろう。僕なりに考えてみると、カルチャーはまだ形が決まりきらない「未完成さ」をまとったもの。文化はそこから時間を経て「土地に染み込み」ようやく定着したもの。つまりカルチャーは文化になる前の揺らぎを持った状態とも言える。

ビジネスやデザインの現場でも「カルチャーをつくる」という言葉が使われるのは、たぶんその未完成さやエネルギーを求めているからなのではないかと思う。一方で「文化を築く」と言うときは、もっと長い時間をかけて深く浸透させたい、成熟させたい意思がある。どちらが良い悪いではなく、こうした言葉のニュアンスを意識することで、コンセプトの細部やデザインに少し丁寧さが宿るような気がしている。

こんなふうに言葉を分けてみたところで、日常的には誰もそんなことを気にしていないし、僕自身も普段は厳密に使い分けているわけじゃない。ただ、自分が何かを「カルチャー」と呼ぶとき、そこには熱や動き、これからどうなるかわからない未来を感じている。逆に「文化」と言うときは、もっと穏やかで人が土地に根ざした過去と経緯を思い描いている。

改めて「カルチャー」と「文化」の輪郭の違いを言語化してみたが、これ自体に特に意味はなく、ただ単に僕は言葉を丁寧に扱いたいというだけなのかもしれない。