2025.06.27
アウトプットの質を上げるデザイン会社、アウトカムにフォーカスするコンサル会社の違い
僕は以前、いわゆる「デザイン会社(デザインコンサル、デザインエージェンシーとも言う)」と呼ばれる会社にいたことがある。ブランド戦略やデザイン戦略、体験設計といった言葉が表に出ることもあるが、実態としては、最終的なコンセプト提案書、ブランドガイドライン、ロゴやクリエイティブ、プロトタイプ等を納品することがプロジェクトの終着点になることが多い。それ自体が、契約上の「成果」として扱われる構造だ。
一方、戦略や事業開発を専門とするコンサルティング会社にも在籍していた。そこでは「収益構造をどう変えるか」「どんなビジネスモデルなら利益が立つか」といった問いに対して、仮説を立て、検証し、数字で答えを出すことが仕事の中心にある(もちろん全てが数字で割り切れるわけではないが)。目的は「美しい資料をつくること」ではなく、「どうすれば事業をより早く前に進められるか」にあった。
そのなかで、McKinseyやBCGなど出身の(ほぼ全員が東大卒だったのだが)先輩・同僚と仕事をする機会があり、あるとき彼らと「なぜ戦コンは高単価なのか」という話をしている中で、印象的な言葉を聞いた。
「デザイン会社は納品がゴールだが、我々にとってのゴールは成果。その違いが単価の差だよ」
もちろん、すべてのデザイン会社が成果を無視しているわけではない。ただ、多くのプロジェクトで議論になりやすいのは、「何を作るか」「どう作るか」「いつまでに」「コンセプトはなにか」「どんな手法やプロセスで、どう表現するか」といったことだ。一方で、「そのアウトプットが消費者やクライアントのどんな数字を変えるのか」「どんなビジネスインパクトを与えられるのか」まで踏み込んで議論されることは、実際ほとんどない。
構造的にそうなってしまう理由もよくわかる。クライアントは「デザインのアウトソーシング」をしている訳で、基本的には「成果物を受け取る」購買モデルで動いている。デザイン会社の側にも事情がある。クライアントに摩擦を生むような厳しい指摘をすれば、継続受注が危うくなるリスクもある。どうしてもクライアントの希望に沿う形に収まりやすく、結果として、ある種のサービス業的な構造に引っ張られてしまう。
ただ、それだけじゃない。もっと根の深いところで、デザイナーという職能自体が「アウトカム」より「アウトプット」を追いがちだとも思う。美意識や職能文化、そして作品として世の中に残ることで得られるデザイナーとしての承認欲求。それらが自然とアウトプットへの執着を強くしている。僕自身も、コンセプトの詩的な表現や抽象度の高い理想論に逃げてしまったこともある。数字や実効性の話になると、どこか苦しく、美しさや哲学で煙に巻きたくなってしまうものだ。
実際、いちデザイナー目線でも「自分のポートフォリオに残せるプロジェクトかどうか」が判断基準になったりすることもある。完成度の高いアウトプットを追求する姿勢は尊いし、僕自身そこに共感する部分もある。けれど、どれほど美しい成果物であっても、それがクライアントの事業や、社会に対して思ったよりも影響を与えていないとすると、どうだろうか(アウトプットそのものが、デザインの業界等で話題になったりすることはあるが)。デザイナーが美しいロゴやショッパーをデザインした飲食店やブランドが、売上に伸び悩み、しばらくしてクローズしていた、なんてケースは何度か見たことがある(大手は採算の取れていないブランドをある程度生存させる体力・資金があるが、中小はほとんどない)。
結局のところ、どこに重心を置くかで、デザインの行き先は変化する。アウトプットの美しさに心を奪われるのか、それともアウトカムに責任を持とうとするのか。わずかな興味の向きが、デザインという営みの意味も、果たす役割も、まるで別物にしてしまうように思う。
でも現代において必要なのは、そのどちらか一方に極端に振り切ることじゃない。どちらかがゼロになれば、掛け算の結果は当然ゼロになる。だからこそ、どちらの領域にもアンテナを張りながら、その都度しなやかに配合を変えていく柔らかさが求められている。
クライアントの事業規模、ブランドの成熟度、投資に割ける余力、置かれた事業や市場のフェーズ。そうした条件次第で、デザインに求められる比重は微妙に変わる。売上や顧客行動を動かすアウトカムへのコミットを重たく据えるべきときもあれば、あえてクリエイティビティに偏り、アウトプットを突き詰めてブランドの未来を引き寄せるような場面もある。
50:50の整った比重のバランスを取れる人ももちろんだが、ときには80:20で振り切り、ときには30:70に傾ける。そんな有機的で曖昧なブレンドを、状況に応じて自然に変えられるデザイナーやディレクター。これからの時代は、そういう能力をもった人が必要になるだろう。