コラム

COLUMN:

都心で残る祭り、地方で消える祭り

渋谷区で暮らすようになって、意外なほど「お祭り」と出会う機会が増えた。ある日、代々木八幡の金魚祭を訪れたとき、少子化とは無縁のように感じるほどの子どもたちがいた。食べ物の匂いや金魚すくい、地元の人との挨拶や何気ない会話に包まれていると、ふと「そのへんの地方よりも、東京のほうが文化が残っているのではないか」と思った。正確には、「改めて」感じたというのが正しい。

僕が育った郡上市では、祭りといえば年に一度の大きな行事だった。伝統の郡上踊りや徹夜踊りは続いているが、日常の風景に染み込むような小さな催しは徐々に減っていった。神輿を担ぐ人も、自治会も、人口減少や高齢化の波に抗いきれないと聞く。

一方、東京の富ヶ谷や神山町、上原あたりでは、季節ごとに大小様々な祭りや縁日がある。お神輿が街を練り歩く日もあれば、商店街が中心となって子ども向けの祭りを開く日もある。想像以上にお祭りが多い。地元の神社や町内会、商店街がゆるやかにつながり、文化を続けている。運営には外国人の姿もあり、若い人から高齢の人まで、国籍を超えて多様な人が祭りを形づくっていた。

もちろん、それは伝統をそのまま継承しているわけではない。ただ、形を変えながらも「場」や「機会」として続いていること自体に、意味がある気がする。都市の文化は、どこか消費的で表層的だと昔は思っていた。けれど、人が集まり、関心を寄せる人が多ければ、むしろ文化的なイベントは維持されやすい。奥渋谷のような都心の小さな共同体に、絶妙なバランスで文化が残っているのを感じる。

地方で文化が薄れていくのは、場や機会が減っているからだろう。人が少なくなれば自然と集まる場も減り、文化は「保管」されるだけで、動かす人がいなければ止まったままになる。一方、東京のように人やお金の流れ、若いエネルギーが集まる場所では、「もう一度やってみよう」「こんな形でやってみよう」といった動きが起こりやすい。恵比寿のビール祭や代々木八幡の金魚祭も、昔ながらの伝統というより、「祭りってこういうものだよね」と自由に再解釈して楽しんでいるように見える。

そもそも文化は、場所に宿るものではなく、人に宿るものだと思う。もっと言えば、人と人の関係や関心、その通信量によって更新され続けるものなのだろう。皮肉なことに、その更新を可能にしているのは、東京という都市の密度なのかもしれない。

地方で生まれ育った僕が、東京で文化のぬくもりを感じてしまうのは、少しさみしい気もする。今後、地方自治体の4割が消滅するとまで言われる中で、東京では文化の維持や更新が続くかもしれない。一方で、多くの地方の素晴らしい文化は、この先どうなっていくのだろうか。デジタルネイティブ世代が家庭をつくるこれからの30年で、文化はどこへ向かうのか。不安と、かすかな期待が入り混じっている複雑な気持ちだ。