コラム

COLUMN:

「いい歳のとりかた」とはなんだろうか

先日、誕生日を迎えた。

年齢の話をするとき、人はどこか構えてしまう。若さへの願望をにじませる人もいれば、逆に「歳を取るのも悪くない」と微笑む人もいる。「あの人は、いい歳の取り方をしている」なんて言葉を聞くこともあるが、そもそもそれってどういうことだろう。

昨年末、学生時代の知人と久々に再会した。

彼は、昔から他よりも一歩先を歩いているような落ち着きがあった。しかしその日、彼の話には少しだけ違和感があった。どこか、時が止まったような言葉遣い。変化し続けている世界の中で、自分の価値観や経験が絶対的であるかのように聞こえた。彼が昔のままなのではなく、変化の速度を止めてしまったような印象だった。

そもそも、歳を取るとは、時間の中をただ漫然に進むことではなく、自身の内省や社会との関係性を更新し続けることではないか。単に、「情報のアップデート」という話だけではない。モノの見方や価値観、倫理観、対人関係、仕事や人との距離感、日々の所作に至るまで、自分のバージョンを生きたまま書き換えること。それができる人は、歳を重ねるごとに自然と魅力的になるように感じる。

逆に、変化を拒み自分の内側に籠ってしまうと、年齢とともに言葉が固くなり、思考が停滞し、世界や世間からズレていく。偏見が多くなったり、怒りぽくなったり、批判的になったり。都会でも田舎でも、そんな人を見かけることは一定ある。若い頃に培った何かに執着したり、過去の成功体験を手放せなかったりすると、それは徐々に悪い歳の取り方へと変わっていく。

とはいえ、更新ばかりが正しいとも限らない。レトロな見た目やアンティークな家具に宿る魅力もあるように、古い日本家屋や庭には、変わらないからこその美しさがある。大事なものを変えずに持ち続ける強さもまた、年齢を重ねることで得られるものの一つのように思う。

歳を重ねるとは、厚みを増すことかもしれない。表層的な若さではなく、時間とともに滲み出る信頼や佇まい。更新しながら選び続けた人だけが持てる、独特のテクスチャーのようなものが確かに存在する。

年齢の蓄積は止められないが、歳の取り方は選べる。自分が悪い意味で歳を取らないために必要なのは、単なる情報の更新ではなく、モノの見方や社会、自分自身への解像度の高さなのかもしれない。何を見て、どう捉え、どう残すか。そのすべてが魅力的なテクスチャーや輪郭になっていくのだろう。大切なのは、何を残して何を捨てるか、その判断に「多面性」と「しなやかさ」があることだ。

All