2025.05.30
「いい歳のとりかた」とはなんだろうか
年齢の話をするとき、人はどこか構えてしまう。若さへの羨望をにじませる人もいれば、逆に「年を取るのも悪くない」と静かに微笑む人もいる。「あの人は、いい歳の取り方をしている」なんて言葉を聞くこともあるが、そもそもそれってどういうことだろう。
ある日、学生時代の知人と久々に再会した。
彼は、昔から他よりも一歩先を歩いているような落ち着きをまとっていた。しかしその日、彼の話には少しだけ違和感があった。どこか、時が止まったような言葉遣い。変化し続けている世界の中で、自分の価値観や経験が絶対的であるかのように聞こえた。彼が昔のままなのではなく、変化の速度を止めてしまったような印象だった。
そもそも、歳を取るとは、時間の中をただ進むことではなく、自身の内省や社会との関係性を更新し続けることではないかと思う。単に、「情報のアップデート」という話だけではない。モノの見方や価値観、倫理観、対人関係、仕事や人との距離感、日々の所作に至るまで、自分のバージョンを生きたまま書き換えること。それができる人は、歳を重ねるごとに自然と魅力的になるように感じる。
逆に、変化を拒み自分の内側に籠ってしまうと、年齢とともに言葉が固くなり、思考が停滞し、世界や世間からズレていく。都会でも田舎でも、そんな人を見かけることは一定あるし、自分もそうならないようにと感じている。若い頃に培った何かに執着したり、過去の成功体験を手放せなかったりすると、それは徐々に悪い歳の取り方へと変わっていく。
とはいえ、更新ばかりが正しいとも限らない。レトロな見た目やアンティークな家具に宿る魅力もあるように、古い日本家屋や庭には、変わらないからこその美しさがある。大事なものを変えずに持ち続ける強さもまた、年齢を重ねることで得られるものの一つだ。それは原点や美意識、倫理観といったものかもしれない。大切なのは、何を残して何を捨てるか、自分の意思で選べること。その判断に「しなやかさと柔軟性」があることだ。
年を重ねるとは、厚みを増すことかもしれない。表層的な若さではなく、時間とともに滲み出る信頼や佇まい。更新しながら選び続けた人だけが持てる、独特のテクスチャーのようなものが確かに存在する。
年齢の蓄積は止められないが、年の取り方は選べる。自分が悪い意味で歳を取らないために必要なのは、単なる情報の更新ではなく、モノの見方や社会、自分自身への解像度の高さなのかもしれない。何を見て、何を見ず、どう捉え、どう残すか。そのすべてが、魅力的な輪郭になっていくのだと思う。