2025.05.02
利便性と引き換えに失った、期待感や高揚感
深夜、大学の薄暗いデスクライトを頼りに、僕はボロボロになった都築響一の『珍日本紀行』をめくっていた。もちろん西日本版と東日本版を持っていた。B級スポットの錆びた手すり、めくれて剥げた塗装、改装前のラブホテル、山奥の自販機小屋。場所はぼかして書かれ、写真も粒子が粗い。その余白を埋めるように、2ちゃんねるの過去ログや個人ブログの奥深くへ潜り、断片的な情報や座標を拾い上げた。
インドに行ったときもそうだった。妹尾河童『河童が覗いたインド』を片手に、デリーの薄汚れたバス停で文字通り迷子になっていた。地球は広く、世間は狭く、そしてインターネットは今よりも情報に溢れていなかった。
いま、同じような旅を計画する場合、インターネットに転がる情報は過剰に親切をしてくれるように思う。noteやXやブログにはおすすめの店の情報が掲載され(薄い内容のものも多い)、YouTube は実体験の動画やドローンでの俯瞰映像があったり、端的にまとまったショート動画がたくさん出てくる。ルートもGoogleマップが教えてくれるし、近くの宿の予約もスマホで簡単にできてしまう。誰もが似たようなコンテンツを目指し、写真を撮り、タグ付けする。10数年前は全く人がいなかったエリア、店舗、銭湯や秘湯には列ができた。情報はすぐにシェアされ、人々の情報の消費が新たな収益を生み、収益が出る限りは薄い情報が拡散され続ける。以前は、一部のギークしかたどり着けなかった情報が、今はどんな人でも簡単に手にいれられる。
おそらく、寂しさの源は情報の薄さや量ではなく、探索の不確かさが失われた点にあると思う。マニアの人の個人ブログを手繰り寄せ、2ちゃんねるのギークな人々のやり取りを見ながら、時に観察したり、仮説を立てながら情報にたどり着く過程から、旅はすでに始まっていた。偶然や発見という要素が、旅の輪郭を膨らませていたのだと感じる。
いつからか、以前よりも旅を面白いと感じることが少なくなった。情報が多すぎて、行く前からある程度現地のことが理解できてしまうからだ。『河童が覗いたインド』や『珍日本紀行』、『地球の歩き方』を読みながら、不安と高揚感を抱えて進んだ道と当時の記憶をこれからも忘れないようにしたい。