コラム

COLUMN:

いじめ映像拡散について丁寧に考えてみる

日本各地で起きた「いじめ映像」が拡散されていた。SNSでのタイムライン上では、このトピックに対して大人たちが言い合いをしている。怒り、悲しみ、許さない、晒してやろう、という声や態度。その一方で、「いじめ自体は昔からあった」「SNSで可視化されるようになっただけ」という意見も多い。

まず、「いじめは昔からあった」という指摘は事実だと思う。スマートフォンがなかった時代にも、いじめはあった。面白半分で暴力やいじめをする人間はいたし、ガラケーの時代でも、いじめや暴力の動画を撮っている人はいた。それにモバゲーのようなSNSもあった。

では、なぜいま社会はこれほど強く反応し、何度も騒ぎ直しているのだろうか。問題の本質はどこにあるのだろうか。

そもそも、かつてのネット空間は、分散したトライブ型の集合体だった。モバゲーや掲示板、コミュニティサイトは存在していたが、多くは半クローズドで、水平に接続されていない分散した空間だった。参加者は一定数に限られ、拡散の速度や範囲には上限があり、いじめは「良くも悪くも内輪の出来事」として処理されてきた。

しかし、現在のSNSはこの前提がまったく異なる。XやTikTok、Instagramでは、投稿はフォロワー関係を簡単に飛び越え、拡散のための合理的なアルゴリズムによって不特定多数に届けられる。(プラットフォーマーの広告モデルは「関係性外リーチ」が最も都合がいいという問題が潜んでいるが、これは別論点なので今回は扱わない)

モバゲー時代やTwitter、Instagram初期と決定的に異なるのは、拡散の速度が指数関数的に変化した点だろう。それにより、いじめは「トライブ内部の出来事」から、突然「社会の表舞台に提出されるイベント」のように変化した。

いじめは高画質で保存され、切り取られ、文脈を失ったまま流通し、繰り返し再生される。その動画を見た人が議論し、テレビやネットニュースが取り上げ、コメンテーターのコメントがネット上でさらなる議論を呼ぶ。加害者の住所や学校が特定され、再生回数を狙ったYouTuberが突撃したり、議論はさらに加速していく。社会の過剰な反応のなかで、自然発生的に社会的断罪や社会制裁が下されていく。

ここで見逃せないのは、こうした社会的断罪が結果として「一番早くて、確実な解決策」になってしまっている点だ。本来なら、学校の中で把握され、調査され、是正され、必要な支援につながるべきことが、拡散されて初めて学校や教育委員会や警察が動き出す。世論が燃え上がれば、学校も行政も動かざるを得ない。その構造が成立してしまっている以上、告発する側にとっても、拡散は最短ルートであり、もっとも労力の少ない手段になってしまう。被害者を救うための可視化が、同時に「社会に断罪してもらう」ための装置として機能してしまう瞬間がある。

昔は、いじめや暴力などは学校や家庭、地域の中で、ある程度処理されていたように思う。教師に呼び出されてこっぴどく叱られることもあったし、家庭によっては親に叩かれたり殴られたりすることもあっただろう。兄弟や先輩に睨まれることもあった。地域には、いわゆる「カミナリ親父」と呼ばれる存在もいた。道端で悪さをすれば、知らない怖いおじさんに一喝される。ドラえもんに出てくる雷親父のような存在は、現代社会ではかなり少なくなったように思う。

つまり、ある種の制裁は限られた地域・ローカルエリアで完結していた。怒りの感情はその場で放出され、問題はひとつの共同体、トライブ内部で収束する余地があった。叱り終えたあとは、同じ町で生き続ける前提もあった。

しかし現在は、地域単位で制裁を引き受ける担い手が減っている。教師は制度的に慎重になり、親はトラブルの拡大を避け、地域の非公式な権威、怖い先輩やカミナリ親父の影響力は弱まった。その結果、いじめに対する怒りや制裁の行き先が、インターネット上に表出するようになったのではないか。

かつてローカルで処理されていたはずの制裁は、現在では社会全体による断罪という形で引き取られている。いじめは個別の問題ではなく、「社会が裁くべき事件」へと変化しているように思う。

特に、社会的断罪が不可逆であるという点について、僕たち大人はより慎重になる必要がある。タイムラインに一度流れた映像は消えない。文脈はがっちり固定され、「あのときの人」として記録され、ネットミームのように消費され続ける。誤った情報が流通したり、誤った断罪が下される場面も少なくない。

社会的な断罪は、本人の成長や更生の余地、教育の責任に対して無責任になりやすい。怒りは突発的に分散され、誰も責任を引き取らないまま情報の履歴だけが残る。それは、子どもにとってはあまりに残酷に感じてしまう。

繰り返すが、守られるべきなのは被害者である。被害者を守るために可視化や告発が必要になる場面は確実にある。ただ、その手段が合理的すぎるがゆえに、社会全体が裁くことが「最適解」として固定されてしまうと、そこには終わりの無い無責任な制裁だけが残る。

もし自分の子どもが、いじめの被害者になったら、自分はどうするだろうか。あるいは、加害者になったら。そのとき、社会的断罪と距離を取りながら、丁寧に向き合える自信があるだろうか。正直なところ、不安のほうが大きい。未熟さゆえか、まだ明確な答えも持っていない。

被害者を守るために選ばれてきた手段が、子どもにやり直しの時間を与えない社会をつくってしまうのだとしたら、その社会構造自体を被害者保護と両立させる形で問い直さなければならないように思う。社会が裁くことを早くて楽な方法として選択し続けるなら、私たちはいつか、叱って終える力だけでなく、成長を信じて待つ力そのものを取り戻せなくなるのではないだろうか。

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