2025.02.07
「デザイン思考」はほんとうに終わったか
ある企業のプロジェクトで、若い社員から「もうデザイン思考って古いですよね?」と聞かれた。たしかにここ数年、「デザイン思考は終わった」といった類のフレーズをよく目にする。IDEO TOKYOが閉鎖したことも大きなトピックだった。そもそも日本でこの言葉が流行のように入ってきたのは2010年代初頭。その時間が経ち、ある程度普及した結果としての反動にも見える。
終わったかどうか、と言われれば、ひとつの波は確かに引いた気がする。一方で、日々の仕事やプロジェクトチームとの対話の中で、自分の中に根付いている考え方としての設計のようなものは、今もなおデザイン思考の文脈に近い。
そもそもデザイン思考とは何だったのか。スタンフォード大 d.school や IDEO を中心に広がったこの概念は、「観察と共感」から始まり、「仮説と検証」を素早く繰り返し、「人間中心」に物事を再設計するという態度(とプロセス)だった。その方法論は、デザイナーの仕事を抽象化し、他業種や他ロールにも適用できるようにした点で大きな価値があった。実際、多くのデザイナーにとっては、部分的に見たり抽象的に見れば共通する項目や概念は多かったはずだ。
ただ、手法や道具としての「型」が普及しすぎたことで、その根底にある姿勢や態度が置き去りにされた側面もある。例えばユーザーインタビューをすれば「共感した」ことになり、ポストイットを使ってワークショップをすれば創造的な議論になっている気がするといった具合だ。手段と目的の混同が起きやすい構造を持っていたのも事実だろう。
実際にいくつかの国内企業でデザイン思考的なワークショップを見てきたが、形式的に進むその場に、ふと空虚さを覚えることもあった。「誰のために、何のために、どうしてそれをするのか」という問いが薄れた状態では、表面的にそれらしい言葉を並べても強いインサイトは生まれないし、もちろんイノベーションも起きない。
一方で、AppleやIKEA、Dyson、Mujiのようなブランドは、あえて「デザイン思考」という言葉を使わないが、その思想を実践している。ユーザー視点を言葉で語るのではなく、表層としてのデザイン思考ではなく、思想や哲学としてのデザイン思考が浸透している。
僕は、「デザイン思考が終わった」とは思わない。そもそも、元々デザイナーとしては当たり前にやっている工程だし(特に観察や試作については)、一般層やビジネス界への「普及期を終えた」だけだろう。導入期の熱狂や、実験期の混乱を経て、今はもっと本質的なフェーズを求められる時期に入っているのではないかと思う。
問いの立て方。観察の深さ。アイデアに触れる前のインサイトの読み取り方。これらは本来、メソッド化できるものではない。これまで多くの企業や人を見てきて、結局のところ、センスや執念のない人に「良い問いは立てられない」と思っている。ロジカルシンキングは学べばある程度は身につくが、デザインシンキングには、それなりにセンスが必要だと思う。だからこそ価値がある。
最近ではデザイン思考も、より構造的なアプローチへと関心が移っている。ただ、それらを取り入れるためにも、ベースにある「問いを持つ姿勢」や「観察や共感の態度」は不可欠だ。仮にデザイン思考という言葉が消えたとしても、その根底にある態度はこれからも別の形で生きていくだろう。
ちなみに僕自身は、「デザイン思考信者」でも「デザイン思考アンチ」でもない。使い方や理解の仕方によってはアンチ、部分的には非常に賛同のスタンスだ。あえて「デザイン思考」という言葉を積極的に使おうとは思わないが、だからといって否定するつもりもない。相手に合わせて、伝わりやすければ使う。デザイン思考がうまく機能しやすい、カイゼンやリフレーミング的なプロジェクトもあれば、新規事業開発のように噛み合いづらいケースもある。ただ、それだけのことだと思っている。
ひとつ、思い出すのは、とあるデザイン会社の代表との会話だ。彼は僕との会話の中で「デザイン思考なんて使えない」と強い口調で言い切った。理由を尋ねると、返ってきたのは驚くほど浅く、論点も曖昧な回答だった。ただの感情論に近く、正しく理解し実践したうえでの評価というより、「IDEO」や「デザイン思考」という存在自体への反発のように見えた。
その人が以前、「デザイン思考」という言葉を使いながら講演しているのを見かけたことがある。「デザイン思考」という言葉が消費されたように、本質や中身の理解や実践によるリフレクションを行うこともはなく、この国では同じように「デザイン思考は終わった」という言葉だけが、流通し消費されていくのだろうと思う。