2025.03.28
あらためてバウハウスについて語る
先日、湘南の友人の新居でひょんなことからバウハウスについて語ることがあった。大学時代に読んだ本やデザイン・建築雑誌の知識から部分的に情報を引き出しながら語っていたが、正直かなり忘れているなと感じたので、改めてバウハウスについてまとめようと思う。
そもそも、バウハウスを初めて体系的に学んだのは大学1年の時だった。体系的にというのは言い過ぎだが、バウハウスについて触れたのはその頃だ。
1919年にドイツのワイマールに誕生したバウハウスは、わずか14年でナチスの圧力により閉鎖された。それでも近代デザイン史に大きな影響を与えていること、近代建築史とデザイン史の軸足を決定づけたと言われる理由は、当時の価値観で見たときのバウハウスの造形の新鮮さ以上に、「機能と社会を結ぶ構造を示した」点にある。
注目すべきは「統合」の思想で、工芸・美術・建築を横断するカリキュラムは、単科教育の常識を覆し、素材・機械・空間を連続的に捉えた。バウハウスでは、椅子も校舎も照明も同じ「構造」として扱われ、機能の純度を高めるために装飾を切り捨てた(アールヌーボーやアールデコからの脱却)。結果、生まれたのは幾何学とモジュールの言語だ(学生時代の初期は、特にバウハウスの合理性が好きだった。ル・コルビジェの建築の持つ合理性やモジュール言語も好きだった)。
次に「標準化」と「量産」への意識。金属パイプチェアやガラス照明は、工芸から機械生産への移行期を象徴している。ここで重要なのは、単に「安く大量に」ではなく、「高い美意識を保ったまま大量に」を志向した点がバウハウスの特徴だった。美と産業の交点を探る姿勢は今日のプロダクトマネジメントの考え方や、デザイン×ビジネスの思想にも通ずる点があるように思う。
バウハウスの教育プログラムは画期的だった。初等課程では形や色、素材を徹底的に実験し、基礎的な感覚を鍛えたうえで、次の段階で専門の工房に分かれて応用的な制作に取り組ませた。この段階的な学びの構造は、現在の多くのデザインスクールのカリキュラムの土台にもなっている。バウハウスは、デザインを異なる専門領域の職人芸の寄せ集めから、複数分野が交差しながら課題を解決する総合的な学問へと引き上げた。
バウハウス的思考は、今なおさまざまな場面に生きている。たとえば、ひとつのプロジェクトにおいて、建築家・インテリアデザイナー・照明デザイナー・グラフィックデザイナーが初期段階から一体でチームを組み、空間の細部まで連続的に設計するケース。外壁の素材選びから内部の家具配置、サイン計画やタイポグラフィに至るまで、個別に発注するのではなく「一つの総合的な体験」として統合的にデザインされる。
それはまさに、バウハウスが提唱した「Gesamtkunstwerk(総合芸術)」、つまり美術・工芸・建築を横断し、装飾に頼らず機能と構造を抽象化して扱う思想の現代的なかたちだと感じる。プロジェクトを通して人間の行為や動線、光や素材の関係まで一貫して編み上げる姿勢は、バウハウスの思想が今も生きている証拠だ。ル・コルビュジエが椅子から都市計画まで一気通貫でデザインした例や、無印良品の住宅のように、生活動線から素材感、照明計画、家具選定までパッケージにしている例も、概念としてはバウハウス的思考だろう。
にもかかわらず、バウハウスが冷たい合理主義と誤解される場面は少なくない。一方で、バウハウスの実際の授業風景には、素材を触り、色を混ぜ、光を浴びる身体的な実験が満ちていたらしい。合理と感性は対立せず、前者が後者を支えるルールとして機能していたと捉えるべきだろう。
僕なりに整理するなら、バウハウスが遺したものは「機能と社会を結ぶ構造を合理で示した」ことではないかと思う。例えば、第二次大戦後(1945年以降)のアメリカで花開いた「ミッドセンチュリー」は、量産技術の成熟を前提に「人がくつろげるモダン」を提示していた(ちなみに僕はミッドセンチュリー時代のデザイナー達の高揚感や挑戦、当時のテンションや空気感をデザインされた製品郡から感じられてとても好きな時代)。
最後に、バウハウス以前のアールヌーボーやアールデコからをシンプルに整理すると、「装飾(アールヌーボー)→合理(バウハウス)→温度(ミッドセンチュリー)」。この流れをもっと深く考えたくて、次はミッドセンチュリーについて書いてみようと思う。
(ちょうど先日、建築家の友人とミッドセンチュリーの話をしたばかりなので)