コラム

COLUMN:

見慣れることと、信じられること。企業ロゴの在り方とは

最近、とある飲食チェーンのロゴが変わっているのを見かけた。街中でふと目に入ったその看板は、以前よりも、なんというか「今風」で味気のない印象に変わっていた。正直に言えば、少し戸惑う。以前のロゴは、特別洗練されていたわけではないけれど、学生時代によく入ったあの店の空気ごと記憶に結びついていた。ロゴが変わっただけで、ちょっと他人行儀に感じてしまうのは不思議だ。(ちなみに画像のPANDA EXPRESSのことではない)

ロゴというのは、目印である以上に「記憶の入り口」だ。感覚や経験をそっと紐づけ、思い出を記憶に刻むための小さな通路のような役割を果たしている。見た瞬間に、そのブランドの印象や態度、佇まいが伝わってくる。だからこそ、ロゴが良いか悪いかを語るとき、単にかっこいいとか、グリッドで整理されているとか、今っぽいカラーとか、そういう話だけでは語りきれない感覚がある。

そもそも良いロゴには、時間が宿っていると思う。例えば、東急ハンズの旧ロゴへのクラフトな印象や愛着、大正製薬のロゴや蚊取り線香の「金鳥」のロゴなど、何度見ても飽きないどころか、繰り返し目にすることでむしろ信頼が増していく。棚に並んだ蚊取り線香から迷わず金鳥を選んだ経験や、大正製薬のリポビタンDを理由なく手に取ったことがある人も多いはずだ。東急ハンズの旧ロゴも、ハンズに行けばなんらか解決しそうな印象を持っていた(現在のロゴは少しモダンで良くも悪くも3COINS的な印象。プロフェッショナルな工房のおじさんがいるイメージは湧きづらい)

彼らのロゴは、見るたびに「いつも通り」であることや一定の品質を保証してくれるし、仮にパッケージのディテールが少し変わっても、その芯には変わらない一貫性がある。単体で今っぽい整理されたモダンなロゴよりも、「ずっとそこにあることが似合うロゴ」のほうが、長い目で見てブランドとしての強度が高い。

反対に、悪いロゴというのは視覚的に不安定だったり、伝えたいものが曖昧だったり、あるいは「どこかで見たような」匿名性にとどまってしまう場合が多いように思う。特に近年は、グローバル展開やデジタルデバイスでの視認性が重視される中、ミニマルで抽象化されたロゴが増えている(グリッド・システムという手段が先に来てしまっているパターンも多い)。もちろん、それは経営戦略や多国間での展開を前提とすれば必然的な流れともいえるが、それだけに、ブランド全体の体温や物語をどう担保するのかが一層問われてくる。表層だけを整えても、芯がなければ印象には残らない。

以前、ある地場の企業のリブランディングの相談を受けたことがある。彼らはもともと、地元の人に愛される有機的なロゴを掲げていた。しかし新店舗を作る際、建築デザイン会社から「ロゴも一緒に見直さないか?」と提案を受けた。出てきた案は、モダンで今どきではあるが、特に特徴のないロゴだった。地場の企業の関係者はそれを見ても、判断の軸を持っていないので選択の余地がない。そこで僕にアドバイスを求めてきた。

僕は昔からその地場企業をよく知っていた。提案書に目を通し、その意図や背景もきちんと汲んだうえで、社長にこう伝えた。「前のままのロゴでいいのでは?以前のロゴは地元の人に愛されているものですし、無理に変える必要はないと思います。」特にそれ以上は言うこともなく、あとはその企業の判断に任せた。数年後、たまたま新しくなった店舗の前を通ると、店舗は大きくきれいになっていたが、ロゴは以前のままだった。見た目もしっくりきていたし、話を聞けば事業も順調。今も変わらず地元で愛されているようだった。

僕は、ロゴをつくることは、その企業やブランドの「ふるまい」を視覚化する行為だと思っている。姿勢や価値観、在りたい方向がきちんと整理されていなければ、どれだけ巧妙な形や文字を選んでも、どこかでノイズが生まれる。逆に言えば、言葉にしづらい空気や文化を、無言で伝えられるのがロゴの力でもある。

ロゴを見るとき、人々は「色や形」を見ているようでいて、実はその背後にある時間や態度を見ている。だからこそ、ロゴには長い時間をかけて築かれた信頼や、その企業のふるまいが、静かに刻まれているのだと思う。
そう思うと、街の片隅でふと目にした古い看板にさえ、少しだけ優しい目を向けたくなる。

All