2025.09.26
誤解の多い「心理的安全性」──心理的安全性の本質をもう一度考えてみる
とあるデザイン会社で「心理的安全性」という言葉が語られていた場面を思い出す。話の流れは、組織カルチャーやチームデザインの文脈だったが、どこか「組織の中での個人の心地よさ」「働きやすさ」「仲良くする」というトーンで使われていた。スタートアップのカルチャー担当者がX(旧Twitter)で心理的安全性について投稿するポストも、多くが「心地よさ」や「仲良い組織」にフォーカスしている。誰も否定しない、みんな穏やかにいられる。そういう文脈のほうが、異論を立てづらいし、たしかに人は耳を傾けやすい。
けれど、それは本来の「心理的安全性」が意味したかったものだろうか。大前提として、居心地のいい組織は素晴らしい。それは正しいし、働く上でとても大事なことだ。だけど、その「心地よさ」がチームやプロジェクトにとって本当にプラスに働いているのか、それとも大事なことを見て見ぬふりする口実になっていないか。そう問いたくなる瞬間がある。
そもそも、心理的安全性がこれほど話題になったきっかけは、Googleが進めた「Project Aristotle」にあった(2015年発表。2012〜2014で調査:Understand team effectiveness )。Googleは社内に無数に存在するプロジェクトチームの中から、業績や評価の高いチームとそうでないチームを徹底的に分析した。「優秀なチームは、どんな人で構成されているのか?」という問いに、個々の能力や経歴、性格的な特徴を洗い出して統計的に比較した。ところが、驚くことに「どんな人がいるか」はほとんど生産性に影響を与えていなかった。代わりに圧倒的に重要だったのは、チームがどのように協力し合っているか、その中でどんなやり取りが日常的に交わされているか、という部分だった。
中でも鍵を握ったのが心理的安全性。対人リスクを恐れずに「こんなことを言ったら無知だと思われるかも」「邪魔だと思われるかも」という不安を超えて発言できる状態。自分の考えや疑問を臆せず表に出せるからこそ、メンバーは互いに学び、チームとして進化していける。Googleが行った数百のチーム分析の中で、この要素は「生産性や創造性を決定づける変数」として浮かび上がった。
立教大学の中原教授は心理的安全性を「何を言っても干されない、刺されない、つまり除け者にされないこと」だと言う。もっと言えば、それは「挑戦や問題提起、リスクのある発言をしてもチームに居続けられる」というセーフティネットのようなもの。つまり、心理的安全性は「リスクを前提としている」というのがポイントだ。挑戦や批判がないなら、そもそも心理的安全性なんて必要ないのだ。これは逆説的だけれど、とても大事な視点だと思う。
Googleの元人材開発責任者だったピョートル・フェリクス・グジバチ氏も、心理的安全性についての日本での語られ方に強い違和感を持っている。彼は、日本では「心理的安全性=楽しくやさしい職場」と誤解しているケースが多いと指摘している。「たとえるなら、青空の下のお花畑でキャッキャと遊んでいるイメージ。確かに心地よいが、それは心理的安全性とは全く別物だ」と痛烈な発言をしている。心理的安全性とは、本来もっと骨太で生々しいものだ。意見が対立したときに「それは違うと思う」と言えるかどうか。間違いや至らなさを率直に指摘できるか。そして、それを言ったからといって人間関係や評価を脅かされないと信じられるかが重要であると繰り返し指摘している。
Googleのデータが示すのは、心理的安全性が高いチームほど、懸念や異論、ミスへの指摘がオープンに出やすくなり、その中で学習や再設計が繰り返されるという事実だ。つまり心理的安全性が高いチームほど、一時的な意見の対立や指摘、一定の摩擦の発生余地があるということ。対立や違和感を自分の中で飲み込まず、むしろ積極的に表に出していく場こそが、長い目で見ればチームの強さをつくる。だからこそ、心理的安全性を「心地よさ」の言い換えで済ませてしまうのはとても危険に感じる。それは、ただ波風を立てないように発言や思ったことをひそめ、場を保つことが優先されているにすぎないとも言える。
一方で、心理的安全性は目的ではない。ピョートル氏も強調していたが、心理的安全性はあくまで「組織の学習や成果を最大化する」ための条件にすぎない。それをゴールにしてしまうと、「何も成果が出ないけれど、みんなが安心している職場」というおかしな状態に陥る。いくら打ち合わせで自由に発言できても、それが何も具体的な成果につながっていなければ、ビジネスとしては意味がない。心理的安全性の先には、必ず「高い成果」「健全な摩擦」「切磋琢磨」「より良いアウトプットへの進化」がセットになっていなければならない。
(成果を前提に心理的安全性を語るか、心地よい組織作りを前提に心理的安全性を語るかで大きな違いがある。そもそも、Googleは「優秀なチームとは何か」「高い成果を出すチームとは」を問いにこの調査をしているということも理解しておく必要がある)
興味深い研究がある。心理的安全性に関する古典的な医療現場の調査研究だ。ハーバードビジネススクールのエドモンドソン教授が行ったもので、医療チームの心理的安全性が高いほど「小さなミスや違和感を率直に報告」し合っており、結果として重大な医療事故が少なかったというもの。逆に心理的安全性が低いチームは、表向き「患者第一」と言っていても、スタッフは日頃の小さな失敗や不安を隠し、重大な問題に発展してしまっていた。この話は、どの業界にも通じる示唆深い研究だと思う。実際、僕もこれまで多くの業界や現場を見てきた中で、似たような状況を確認したことは多い。
例えば、製造業の工場。作業現場で軽微な怪我やヒヤリハットがあっても、それを上司に正直に報告すると、「なぜなぜ分析」や「現場改善会議」「報告書の作成」といった一連のプロセスが動き出す。場合によっては工程全体の見直しや安全教育が追加され、当事者だけでなく周囲も時間を取られる。そうした面倒や負担を想像すると、ちょっとした切り傷や打撲程度なら「大丈夫です」と済ませてしまう。さらに、工場内に大きく掲げられた「無災害XX日継続中」の表示板も良くも悪くも心理的な重石になっている。誰もその記録を止めたくないし、止めた本人として名前が残るのも怖い。結果として、ヒヤリハットは表に出ず、重大事故の一歩手前の予兆は静かに暗闇に積もっていく。心理的安全性が低い職場では「問題が水面下で大きく育つ」ことが多い。
小売や飲食のチェーン店においてもそうだ。現場は本部施策に「無理です」と言えない空気が強い。新メニュー、新キャンペーンが投入される度に、調理や在庫管理が複雑化しオペレーションも増える。それでも店長は受け入れる。断れば「マネジメント不足」と見なされ、評価や立場に響くからだ。結果として現場は限界ギリギリで回し続け、小さな問題が表に出てこない。パートやアルバイトは疲弊し、接客品質がじわじわと落ちていく。やがてそれは顧客体験の低下となって現れ、気づいたときにはブランドロイヤルティが大きく毀損していることも少なくない。心理的安全性の低い組織では、見えないところで課題が積み重なり、ある日突然、取り返しのつかない形で表面化することがある。
大前提として、心理的安全性は、率直な発言があって初めて成立するものだ。そこに「挑戦」や「違和感」を持ち込まないなら、それは単なる「仲良しの場」にすぎない。そして仲良しだけでは、組織は学べないし、変わっていけない。耳の痛いことや、自分や組織にとって都合の悪いフィードバックを受け止める。それを排除せず、議論や改善を続ける。そういった地道で面倒なプロセスを避けて、ただ「優しくしよう」「気持ちよく過ごそう」と言っている限り、表面的に掲げた心理的安全性は絵に描いた餅になる。
最後にもう一度整理したい。心理的安全性とは、挑戦や問題提起、異論、議論、失敗やミスをさらけ出すリスクが前提にある。だからこそ、それを支える「排除されない」という確信が必要になる。ここでいう確信とは、「対人リスクをとっても自分の立場や人間関係が脅かされないという共有された確信」だ。この状態があるからこそ、チームは意見をぶつけ合い、摩擦を繰り返しながら学んでいける。そして、その学びの先にしか、本当の成果は生まれないだろう。
(「対人リスクを取っても排除されないこと」「耳の痛いことを言った人を保護するルール・態度」「ミスや失敗を学びに変えるカルチャー」などが大前提に必要)
この文章を書きながら、僕自身、とある組織で「問題提起」や「違和感を言語化」したときのことを思い出した。結局、そこで待っていたのは、ある種の排除だった。耳の痛いことを言った人を守るルールや態度などは存在せず、周りの人たちも「言っても変わらないから」と諦めていた。結果的にそれを言葉にしたのは僕だけだった。その組織では、ここでいう「誤解された表面的な心理的安全性」をしばしば語っていたことが、今思えば何よりの皮肉だと思う。
僕は「心理的安全性」という言葉をあまり軽々しく使わないようにしようと思っている。優しくて心地のよい組織は一見魅力的に見える。けれど、心理的安全性が誤った認識のまま、表面的に語られている場面をこれまで何度も目にしてきた。だからこそ、この言葉をただの「心地よさ」で終わらせず、その先にある学びや成果までを含めて、これからも正しく理解し続けたいと思っている。