コラム

COLUMN:

思考が先か、言語が先か

このテーマについて繰り返し考えている。


「控えめな印象」を持つ知人がいた。その人が、英語で会話を始めたとき、急に明るくてコミュ力の高い印象に驚いたことがある。知人は「日本語だと遠慮しがちだけど、英語は直接的な表現だし楽」と言っていた。僕たちは思っている以上に、「言語」によって思考や振る舞いに変化を与えているのではないかと感じた。

言語が思考を左右するのか、それとも思考が言語を形づくるのか。
この問いは長く繰り返し議論されてきたらしい。言語学の領域では、エドワード・サピアやベンジャミン・ウォーフが、言語が人間の認識や思考様式に決定的な影響を与えると論じたことで知られている。一方で、言語はあくまで思考を表現・伝達するための道具にすぎないという立場も根強い。「思考が先か、言語が先か」。この問いはいまなお明確な結論に至っていない。

オーストラリアのアボリジニのある先住民族は、右や左ではなく東西南北で方角を示す。だから「ちょっと南東に動いて」や「北北西の足元に虫がいる」などが日常語になる。彼らは小さな子どもですら常に方角を正確に意識して暮らしているという。自分を基準に空間を捉える僕たちには、ほとんど想像がつかない感覚だ。


また、時間の並べ方も文化と言語によって違う。英語話者が写真を左から右に古い順で並べるのは、文章を読む向きに引っ張られている。一方で右から左に文字を読む言語では、時間もそのように並ぶ。さらに先ほどのアボリジニの先住民族は、東から西へと並べる。時間の概念は、大地や太陽を基準にするは興味深い。

「言語」は、私たちが世界をどう切り取り、どう順序づけ、どう理解するかを方向づけている。日本語を話すとき、僕たちは「空気を読む」ことで、全体の調和や相手の感情を敏感に捉えようとする。

一方、英語で話すときは「I think…」や「I feel…」と自分の主観から始める言い回しが自然で、それだけで自己主張のハードルが下がるように感じる。また、英語は日本語よりもロジカルな言語とも感じる。日本語は曖昧な言い回しも多く、思考や表現に曖昧さや余白を残す。言語は思考や認知だけでなく、その場のコミュニケーションスタイルや感情の表現まで微妙に動かしてしまうように思う。

こうして考えると、2つ以上の言語を話す人が、同じ事柄について違う判断軸を持つのも納得できる。複数の言語を駆使する人たちの中には、同じ問いに対して使う言語を変えることで、別の選択肢や視点が見えると言う人もいるらしい。

つらつらと書いたがやはり僕は、「思考が先でもあり、言語が先でもある。ただし思考の質を決めているのは言語」だという立場だ。感覚・直感・違和感は、言語化以前に立ち上がる。つまり「思考」が先。これは僕自身の思考の感覚と一致する。

しかし、その後どこまで深く考えられるか、つまり思考の深度。そして、その思考を他者と共有できるかは、使える言語の解像度に依存する。言語は「思考の起点」ではないが、「思考の限界」を決定する。

僕自身もこれまで仕事の中で、「言葉選び」に慎重になってきた。言葉はラベルにとどまらず、物事の重力を決める。ネーミングやリード文ひとつで、議論の角度や可能性がガラリと変わってしまうこともある。そこには、言語が思考の構造を支配する面白さと怖さが交差しているように思う。

思考が先か、言語が先か。どちらが先かは簡単に割り切れないが、僕たちは常にこの循環の中にいる。だからこそ言葉選びを疎かにせず、その違いに敏感でありたい。

同じ世界を見ているようで、違う言葉で語るとき、僕たちは少し違う世界を見ているのかもしれない。その小さなズレに気づき、楽しめる感性を持っていたいと思う。

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