コラム

COLUMN:

agree to disagree. ──「意見が一致しないこと」を受け容れる技術

日本で暮らしていると、「意見が食い違う場面」はどこか気まずさを感じる瞬間がある。「日本人はディベートが下手」と言われるのもあながち間違っていないようにも感じる。議論をしているつもりでも、いつのまにか感情に火をつけ、その後の関係を微妙な状態にしてしまうような場面を、僕も何度も見てきた。あるいは意見の対立を避け過ぎるがあまり、互いにあいまいに頷き合い、様子を伺いながらその場を取り繕ったり議論になることを無意識に避ける人もいる。そうして意見の違いについては議論されることなく、「あの人はなんとなく、自分と違う人だ」と距離を置く。けれど、本当にそれでいいのだろうか。

「agree to disagree」という言葉がある。直訳すると「不一致に同意する」。つまり「意見が一致しないことに同意する(考えの違いを認めて相互尊重を示す)」という考え方だ。僕たち日本人には少し馴染みが薄い言葉に感じる。

元ソニー会長の平井一夫さんも、国籍も宗教も異なる人たちと議論を重ねる中で「自分とは違う意見を認める」姿勢や技術をこの言葉から学んだという。平井さんはインタビュー等で何度もその学びを述べていた。

僕も平井さんの足元にも及ばないが、外国人やバックグラウンド・価値観の違う人との会話や議論の中で、この言葉の意味を少しずつ理解してきたように思う。プライベートでも仕事でも、どれだけ構造的に、論理的に、順序立てて話したとても、別の文脈を生きてきた人はやはり別の視点を提示するので噛み合わないことがある。そこでは「賛成はできないけど、言っていることはわかる」という線引きを自然に行ったりすることはがある。これこそが、agree to disagree だと思う。

日本では教育の場でも仕事の場でも、どこか「同じ結論にたどり着くこと」が暗黙の目標になっているように感じる。道徳の授業でもそのニュアンスを感じたし、職場においてもバイト先でも、学校でも、そういったシーンはよく見かけた。それらを「雰囲気を和を重んじる文化」と言えば聞こえはいいが、それは往々にして「異なる価値観を持つ人を居心地悪くさせる」理由にもなる。余談だが、以前、「エリートの『多様性』と、その外側にいる人たち」というコラムでも書いたように、同じ価値観を持つ人たちが集まることで心地よさは保たれ、結果としてその価値観が繰り返し再生産されていく。多様性とは、実はとても選択的なものだ。

実際、プロジェクトにまったく異なる価値観のメンバーが入ると、最初の議論は摩擦を生むことがある(逆に同質性の高い集団によるプロジェクトは摩擦が少ない)。けれど、その摩擦を「正解に収束しない不安」として恐れるのか、それとも「視野を広げる機会」として受け止めるのかで、その後のアウトプットやアウトカムはまるで違ってくる。

僕自身も経験がある。コロナ禍、ある事業の計画をしていたときのことだ。チームには、バックグラウンドや価値観のまったく異なるメンバーが集まっていた。論理性や合理性を第一に考える人もいれば、社会的意義を強く信じる人、徹底してユーザー目線の人、とにかく事業のスピード感を徹底したい人もいた。当然のように、初期フェーズは何を優先すべきかという議論は平行線をたどり、互いに苛立つ場面もあった。しかし、意見の違いを受け入れる態度を示す「agree to disagree」の話を僕からしたら、その後は多少の意見の違いがあっても「言ってることは理解できる」「意見は理解した」と反対の意見を言う前にお互いが言い合えるようになり、議論が少し進みやすくなった。ある程度、価値観や意見は違うまま先へ進むことを選んだ瞬間だった。

アメリカは「個人の意見を尊重する文化」が強いので、agree to disagreeという言葉は「これ以上争っても意味がないから、お互いの立場を尊重して終わりにしましょう」というニュアンスが強い。しかし僕はこれまでの経験からも、この言葉を単なる「議論を終わらせるための便利な言葉」だと解釈したくない。むしろ、「互いの違いを許容して並走することを選択する強さの表現」だとも思う。全員が完全に納得する解を追い求めるより、「異なる意見が同居する状態そのものを一つの価値」として認める。その過程には当然、不安や曖昧さもある。でも、それを抱えたまま進んでいけることこそが、ある種の多様性の成熟した状態ではないかとも感じる。

少し抽象的な話になるが、これからの時代においては「同質性に基づく安心感」よりも、「違いを内包しながら前へ進む力」の方が、より重要になっていくはずだ。ポピュリズム的な思想が広がり、多様性に対するアンチテーゼの声が強まっている昨今だが、多様性・多様化の流れは不可逆な現象でもある。だからこそ、その力をいかに活かし、推進力へと転換していけるかが問われているのだと思う。

agree to disagree は、そんな社会を生きるための、ひとつの考え方であり、ある程度確かな態度だと思う。異なる意見を前にしたとき、それは違うと切り捨てる前に、一度立ち止まって「なるほど、あなたはそう考えるのか」とまずは一旦受け止めてみる。そのうえで自分はどう感じるか、どう進みたいのか。そんな問いを、自分自身に丁寧に向けてみてもいいのかもしれない。

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