2025.08.01
絵に描いた餅と掲げて終わりのパーパス
「パーパス」という言葉がビジネスの世界でも徐々に浸透してきた。パーパスは、2013年以降くらいから北米企業を中心にパーパスドリブンな広告やマーケティングキャンペーンが生まれていったように思う。それまでは、「感動的なストーリーテリング」や「問題提起型の公共広告」が主流のなかで、「ブランドは“何のために存在するか”を語るべきだ」という潮流が広告・マーケティング業界で強まり、カンヌ広告でもその文脈を抑えた作品が本格的にメインストリームとして受賞し始めたのが2015年前後の印象だ。
日本へは2020年ごろから本格的に輸入され、多くの企業がビジョンやミッションと並んでパーパスを掲げるようになったと記憶している。
同時に、パーパスを語るエバンジェリストのような存在も増えた。PatagoniaやNIKEの事例が、広告業界やデザイン業界の中で擦られ消費されていたことを覚えている。当時、僕や僕の友人たちは、その熱狂にどこかデザイン思考ブームやD2Cブームに似た空気を感じていて、むやみに飛びつかないようにしていたのを記憶している。
パーパスが徐々にバズワード化していく中で、僕自身は距離を置いた冷静な目線で捉えていた。その理由はいくつかある。
まず、この潮流の大きな前提として「消費者の環境・社会意識が急速に高まっている」という主張がある。確かに調査会社や広告代理店のレポートはその前提に立っている。しかし、実際の市場行動はどうだろう。いくつかの米国のレポートを確認してみても、ESGやサステナブルな製品の成長は一定確認できるが、その比率はまだまだ限定的と言える(NYU Stern 2020, Unilever 2017など)。
レポートだけでなく、実際の消費行動はどうか。多くの消費者は依然として「安い方」「便利な方」を選んでいる。例えば、ドン・キホーテは売上を伸ばしているし、イオンやセブン&アイでは安いPB商品が売れる。便利で安く購入できるAmazonで水などを買う人も多い。
僕はPatagoniaに共感し、学生時代からPatagoniaで働いていた。2011年頃からマイボトルやマイバッグを必ず持ち歩くようにしていた自分ですら、「安い方」「便利な方」を選ぶことは今でもよくある。環境に良い選択が一般的に持続的な生活様式になるかというと、正直なところまだ怪しい。北米でも日本でも、消費者の価値観は実際はもっと複雑で、社会善をどこまで優先するかには大きなグラデーションと無限の変数がある。
さらに気になるのは、パーパスを掲げるストーリーが「欧米中心で語られすぎている」ことだ。確かに欧米の方が「企業が政治的・社会的スタンスを求められる」場面は多い。だがその一方で、GallupやPewの社会調査でも書かれているように、欧米諸国は分断が深刻化し、孤独や幸福度の停滞はむしろ顕著になっている流れも見えてくる。
(Gallup「Americans Remain Pessimistic About Political Divisions(2022年)」、Pew Research「More Americans see very strong conflicts between Democrats and Republicans(2023年)」など)
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」の著者、マイケル・サンデル氏も繰り返し指摘していたように、「道徳的優越感」が分断を深めるリスクもある。過度なパーパスは、社会のひずみを和らげるどころか、むしろ分断を可視化し、相手を「意識の低い側」とカテゴライズするラベルとして機能してしまう場面すらある。実際にこの5〜10年の欧州や北米で起こっている分断を客観的に観察していると、それも十分理解できる。
そもそも、パーパスは魔法ではない。組織理念として「掲げるだけ」なら簡単だ。耳通りのいいキレイな言葉を載せ、社内報やSNSやWebサイトでそれを発信するだけなら誰でもできる。でもそれは、社内や社会からの信頼を積み上げる行為にはならない。むしろ、立派な言葉を掲げれば掲げるほど、その「言葉に釣り合う行動や意思決定」を顧客や社会から求められる。実態が変化しないのに表層的な言葉を並べるばかりのマネジメントに対して、社内からネガティブな意見や諦めの声が聞こえた現場を、いくつもみたことがある。
McKinseyやBCGのパーパス関連のレポートでも述べられているように、パーパスは人事、評価、予算配分、投資判断など、組織の意思決定に落ちてはじめて意味を持つ。パーパスのワークショップや研修、カルチャーを体現する名目で作られるいい感じのオフィス空間を作るだけで終わるパーパスは、形式だけのモノになりやすい。特に、BCGのPurpose Indexでは「Purpose as an Operating System」という言葉が使われているのが特徴で、これはパーパスを理念として語るのではなく、事業の優先順位やKPIの基盤に埋め込む設計思想を明確に示している。(McKinsey「Purpose: Shifting from why to how(2020)」、BCG「BCG Purpose Index(2023)」など)
大前提として、僕は「無理にパーパスを作る必要はない」という立場だ。企業の使命や、何を達成しようとしている組織・チームなのか、その組織の価値観・行動指針をまずは荒くても定義すれば必要十分と感じる。ようはミッションやバリュー、昔から使われている言葉で言い換えると、企業理念や社訓があれば十分である。もっと言えば、事業が成長した後にミッションと向き合ってもよい。Patagoniaも歴史をたどれば実は後からミッションと向き合っているし、主張の内容やスケールも成長と共に更新していたりする。
実際に、あるスタートアップ立ち上げの際も「ミッションなどと合わせて、パーパスを作るべきか?」を問われた。僕は「基本的に不要。要素が増えても従業員が覚えられない。フレームワークの構造も複雑になる。まずはミッションとバリューのみで問題ない」と答えた。結果的に、ミッションからドリルダウンしたバリューを「社員の評価システム」や「採用時の質問事項」などに組み込んで機能的かつシンプルに設計した。
もし仮に、どうしてもパーパスをつくりたいのならどうするか。一番大事な問いはパーパスをどう「組織を動かす仕組みに落とすか」だろう。事業の優先順位を決める指標に組み込んだり、KPIの基盤に埋め込む設計思想、採用基準や評価基準の一部にパーパスが間接的にでもレバー作用して紐付くように設計しなければならない。そういった具体的で生々しい判断や設計の積み重ねこそが、パーパスを組織に浸透させる唯一の方法とも言える。パーパスは魔法も近道もなく、あるのは泥臭い作業とスマートでシンプルな設計のみだ。
結局のところ、パーパスは理念でありながら、同時に運用面でのOSのようなものでなければならない。言葉だけなら誰でも掲げられる。しかし、「掲げた言葉に釣り合う行動や態度を示せるか?」「釣り合う仕組みを設計し運用する覚悟があるか?」を問われるとしたらどうか。それに答えられず、仕組みの設計までコミットする意思がないなら無理にパーパスを作らなくてもいい。
パーパスと本気で向き合うなら、それは痛みや摩擦を引き受ける選択でもある。「絵に描いた餅としてのパーパス」、つまりただの飾りではなく、現実や運用に耐えうるものとしての本質的なパーパスが増えて欲しい。そして、飾りだけのパーパス策定などを売るパーパス・エバンジェリスト達も肝に命じて欲しい。そして何より、あなたの組織は、「掲げた言葉にどこまで痛みを引き受ける覚悟があるか?」この問いに対して丁寧に思考した上で、はじめてパーパス策定PJを推進して欲しいと感じる。