コラム

COLUMN:

エリートの多様性と、その外側にいる人たち

これまで「多様性」という言葉に若干の違和感を抱いていた。もちろん、嫌悪しているわけではない。むしろ良い言葉だと思うし、多様な人が互いを尊重し合う社会は間違いなく理想的だ。ただ、多様性という言葉がどこかエリート層のみで都合よく消費されているような感覚を感じていたからだ。

とある会社の代表が「うちの会社のメンバーは多様性がある」と誇らしげに語る場面に何度か出くわした。けれど、そこで言う多様性はせいぜい職能の多様性にとどまっていた。デザイナーがいて、エンジニアがいて、デザイナーもグラフィックやUI、サービスデザイナーやデザインエンジニアがいることで「多様性がある」と言うのは少し違う。別の会社では、外国籍のスタッフが何名かいれば「ダイバーシティ」だと誇っていた。でも、それらは単に「職能」や「国籍の違い」にすぎず、その背後にある価値観や暮らしの背景にまで目が届いているかといえば、正直そうは見えなかった。

(ちなみに多様性というと、国籍や職能の違いにばかり注目が集まることが多い。今回はそのことへのささやかなアイロニーを込めて、あえて肌の色の違いを強調したサムネイル画像を選んでいる)

多様性という概念の限界は、特にエリート層やインテリ層が語る文脈においてより顕著に表れる気がしている。上場企業や意識の高いデザイン会社・スタートアップなどで語られる多様性は、エリート同士間の「ある程度価値観が同じ人同士」が前提にある上での多様性しか語られていないことが多い。

学士や修士、いい大学を出ている者同士、デザインや建築、アートやアウトドアなどの少しだけ違う文化圏で育ったことを互いに尊重し合う。どこか「同じレイヤーにいるからこそ成立する、限定的な多様性」を感じる。言い換えれば、ある程度似た価値観やスキルを持つ人間たちが集まった、エリートやインテリの社交クラブでの多様性に近い。

一方で、そうした会話の「外側にいる人たち」の息苦しさについても目を当てたい。例えば、SNSで目にしたある53歳男性の言葉だ。

「多様性社会が生きづらい。自分は人生のほとんどを理不尽や罵声が当たり前だった昭和で過ごしたから、今の時代に適応できていない。本当の意味で理解できていないし、老害にはなりたくないから黙っている。だから社会で自由に発言する権利を失っていて、生きづらい」

彼はおそらく、多様性という言葉が自分を救うとは感じていないだろう。むしろ多様性という言葉が当たり前になるほど、社会が自分を排除するように感じ、何も言えなくなるのかもしれない。

この話に「そもそも人間性の問題では」とツッコむ人もいた。けれど、僕はその父親の率直な吐露に、とても現代的な苦しみを見た気もする。時代が変わるスピードについていけず、でも置いていかれまいとして生きづらさを感じながら沈黙を選ぶ。自分でうまく言語化できなくても、この人に近しい感覚を持っている人はいるのではないかと思う。(仮にこの投稿が嘘だとしても、いずれにせよこのような息苦しさを感じている人は一定数いるように感じる)

そう思うと、アメリカでドナルド・トランプが支持される構造も理解できる。あの粗野さ、攻撃性、単純な分断の物語が、置き去りにされた人たちには救いに見えることがあるのだろう。エリートやインテリ層の多様性の議論に含まれなかった人たちが、別の旗の下で再び自分を確認しようとする。そういう揺り戻しの力は、世界であちこちで起こっているように思う。

先日、日本でも参議院選挙が行われた。国民民主党だけでなく、参政党や日本保守党などが保守的なメッセージを掲げ社会の中で取り残されている人々に訴えかけた政党が議席を伸ばしたことが話題になった。

それに対し、一部リベラル寄りの知識人たちは、「参政党の支持者は馬鹿だ」「無知ほど恐ろしいものはない」「政治をよく知らない若者が投票するのはいかがなものか」といったコメントをネットやテレビで発信していた。僕自身は参政党の主張に共感できない点は多い。けれど、この選挙結果を見ていると、日本においてもグローバリズムやダイバーシティといった価値観への反発の兆しがいよいよ表面化してきたようにも感じる。

僕は別に、古い価値観を肯定したいわけじゃない。当然、パワハラや理不尽、昭和はこれが当たり前だったと美化する風潮や、国籍や性別だけで人を判断する考えには反対の立場だ。ただ、多様性を語るときに「自分たちが選別された人間同士の居心地のいい多様性」を前提に議論をしていないか、それは疑い続けたいと思っている。

多様性という言葉は美しい。しかしその「言葉が届かない場所」に目を向けない限り、人類はいつまでも同じところを堂々巡りする気がしている。

そもそも多様性は、価値観がまったく違う人や、わかり合えない人と共に生きることを前提にしたものだ。だから本当の意味では、少し面倒で、ときに摩擦を伴う概念だと思う。多様性とは「みんなが少しずつ不快な世界だ」との表現もある。

そんな中で人類が多様性を選ぶ理由は、広い意味では多様性が「人間がこの世界で生き残るための生存戦略」でもあるからだ(変化の激しい社会の中で多様性を保つことが、企業や人類にとっての生存戦略や競争戦略に繋がる)。

この先の未来もできるなら、めんどうさごと引き受けながら、それでもなお多様性を選ぶ社会であってほしいし、個々も適切に多様性の概念と向き合えるようにあって欲しいと切に願う。

最後に、もう一度補足しておきたいのは、多様性はもともとエリートやインテリ層が好んで使ってきた言葉だということ。彼らが語るそれは、しばしば「共通の価値観を共有していること」が前提となっていて、その前提が揺らぐ場面については、少なくとも僕が観測した範囲では、ほとんど語られていなかった。

もちろん、そこに悪意があったとは思わない。ただ、その耳障りのいい言葉の奥にある、実際の運用の難しさや面倒くささ、たとえば、価値観や生き方の根本的な違いにどう向き合うかという問いについて、彼ら自身が深く考える姿勢が見えなかったことに、今でもどこか引っかかりを感じている。

(A24の「シビル・ウォー」を観たり、今回の参院選挙をめぐるネットやテレビでの議論を追うなかで、このテーマがいかに現代的かつ重要な問いであることを感じたため、ここに一度整理しておきたいと思った)

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