2025.08.15
正義と正義のぶつかり合い
毎年この時期になると、黙祷のサイレンを聞きながら戦争について少し考える。8月6日〜15日は日本人にとって過去や記憶と向き合う時間であり、平和についてあらためて考える節目でもあるように思う。
最近、ニュースを見るたびに「正義」について考え込むことが多くなった。ここ最近は特に戦争に関するトピックが多い。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、イスラエルとイラン。どちらかが完全に悪で、どちらかが絶対的な被害者だと言い切れるほど単純じゃない。長い歴史の中で互いに正義を積み上げてしまい、その結果が今も終わらない悲劇を生んでいる(人によってはイギリスの二枚舌、三枚舌を悪だと言う人もいるが、結局それもまた別の正義の視点だったり)。
そんな「正義と正義のぶつかり合い」は、何も遠い国の話だけじゃない。僕らの日常にも小さなスケールでたくさん転がっている。
例えば家族の中。受験を控えた子どもに、母親は「今だけ頑張るのが将来のためだ」と言い、父親は「まだ子どもなんだから、好きなことをさせてやれ」と返す。どちらも間違っていないし、どちらも子どもを想っての正しさだ。けれどその価値観はぶつかり合い、夕食のテーブルには小さな沈黙が落ちる。場合によっては声を荒げる家庭もあるだろう。
正義と正義が衝突するのは何も家族や職場に限った話じゃない。もっと露骨で極端な例は街角やネットの中にもある。
駅のホームで歩きスマホをしていた女性に、「危険なので注意するつもりでやった」と肘で体当たりを繰り返した男が逮捕された事件があった。週に3度も体当たりをしていたという。あるいは「道路にはみ出た看板が危ない」と毎日見回り、見つけると破壊して回る人もいた。コンビニに寄った消防士を「サボっている」と勝手に決めつけてネットに晒したりするなど、自分が正しいと思うことを他者に押しつけ、正義が暴走している例は後を絶たない。
あおり運転の加害者を特定し住所や顔写真を拡散したり、芸能人が「いい天気だ」とつぶやけば「被災地を思え」と正義を振りかざす。「こいつがいじめの犯人です」「立ち読みが邪魔だから晒してやる」「まだ被災地は大変なのに」。ネット自警団や不謹慎狩りは日常茶飯事に起こっており、「正義」同士の正しさのぶつけ合いが毎日のように行われている。
結局のところ、僕らの周りには「正義 vs 悪」みたいな分かりやすい構図はほとんどなくて、いつも「正義 vs 正義」なのかもしれない。それぞれが守りたいものがあり、それぞれに理由がある。だからこそ話は複雑になり、しばしば小さな分断を生むことがある。
だからといって、できれば僕はこのテーマからできれば目を逸らしたくない。今の世界はすぐに敵を探そうとするところがある。より早く「何が正しいか」「誰が正しいか」を言い当てることに固執する。そもそも、この世は複雑で実は曖昧だ。だからこそ少し立ち止まり、俯瞰してみる。相手の立場になって想像してみる。何事も「二項対立」ではなく「グラデーション」があると考えることで、誰かを簡単に悪者にしなくて済む場面もあるように感じる。
言葉にすると少し平凡に響くかもしれないけれど、正義はときに人を深く傷つける。だからこそ、自分の中の「正しさ」を俯瞰してみる心の余裕や習慣、思考の余白を忘れずにいたいと思う。