2025.06.06
What Kind of an American Are You?
昨年の秋頃、映画好きの友人とともにA24の「Civil War」を観てきた。印象的だったのは、物理的な迫力よりも「問い」が多く散りばめられていた点だ。
特に印象的だったのは、赤サングラスの男の問いかけだ。
「What kind of an American are you?」
お前はどんなアメリカ人だ?と問いかけられる。返答次第で、生死が決まる。出身州、肌の色、言葉のアクセント。それらが敵か味方かを決める唯一の指標となり、そこに理屈や倫理は存在しない。
大前提として、僕はずっと、「話せばわかる・わかり合える」と思って生きてきた。たとえ考え方が違っても、違和感があっても、きちんと話せば、理解に近づける。そんな希望のような信念を、わりと夢雀に持っていた気がする。年齢を重ねるにつれ、社会を知れば知るほど、僕の「話せばわかる」という考え方は理想であり、実際の社会と少しギャップがあるのかもしれないと思うようになった。このセリフは再度その事実を突きつけられた感覚があった。
少し話は逸れるが、ハンターハンターの主人公のゴンも、「話せばわかる」と思っている人間だ。敵対する相手に対しても、どこかに分かり合える余地を信じている。その無邪気さが、時に強さにもなる。そんなゴンも、ゾルディック家の番犬「ミケ」を見たとき、その考えが通じない存在がこの世にいることを直感していた(これは個人的ハンターハンターのハイライトのひとつなのであえて紹介)。
「シビル・ウォー」で描かれていたのは、まさにその先の世界だった。「わかり合えないこと」が前提となった社会の現実を改めて可視化した。出身地や肌の色、思想、発言。些細な違いが、命の選別の条件になる。
最近、X(旧Twitter)でも「話せばわかる」が通じない瞬間をよく目にする。議論の一部だけが切り取られ、文脈が正しく理解されず、論点が大きくズレていく。会話が成り立っていない。部分的に揚げ足をとり、誰かの人格が断罪されていく。そこには、説明の猶予も存在しないように思う。
初期のインターネットの世界は、一部のギークだけの世界だったが、スマートフォンの普及によって誰でもインターネットに接続できるようになった。これまで社会の中で絶妙に接点がなかった人同士が、インターネット上で出くわすようになり、摩擦や衝突を繰り返すようになっているように感じる。
ネット上だけではない。グローバリズムやダイバーシティの加速によって、現実の社会でも起こっている。アメリカと中国、ロシアとウクライナ。イランとイスラエル。インドとパキスタン。言語も文化も思想も宗教も違う者同士が、わかり合えない同士の摩擦や衝突が増えている。
「わかり合えない」相手に対して、どう接していくか。そこに、今の時代の倫理の難しさがある。
だけどそれでも僕は、話すこと、対話を諦めたくないとも思っている。話せばわかるという幻想が仮に壊れたとしても、言葉を尽くそうとする姿勢や誠実な姿勢にだけは、意味があると信じたい。僕ら人間が、手放してはならないのは、「正しさ」や「正義」よりも、「思いやり」や「優しさ」なのだと思う。