コラム

COLUMN:

空間の「豊かさ」の正体は、なにか

初めて訪れたギャラリーで、展示以上に印象に残ったのは、空間の「静けさ」だった。白く塗られた壁、磨かれたコンクリートの床、天井から自然光が落ちる小さな吹き抜け。そこに立っていると、時間の流れが少しだけ遅くなるような、自然と深呼吸をしたくなるような感覚があった。展示されていた作品の性質にも左右されたのは確かだけれど、それ以上に、その場所そのものが建築や空間の豊かさを語っているように感じた。

そもそも、空間の豊かさとは何だろう。広さ、美しさ、機能性?それとも、そこにいるときの身体や思考の感覚のようなものだろうか。

僕自身、建築の専門家ではないけれど(大学時代は少しだけ学んだが)、日々の暮らしの中で、空間に助けられたり、心地よくなったり、ときに邪魔されたりしながら生きている。だからこそ、この問いに何かしらの言葉を与えてみたくなる。

思い返すのは、2021年に閉館した「原美術館」だ。設計は東京国立博物館の現・本館や和光ビルを手がけた渡辺仁。モダニズム建築の流れを汲んでいるが、空間は中庭を包み込むように緩やかな円弧を描き、白い壁とグリーンのコントラストが美しい、豊かな場所だった。記憶に残っているのは、展示以上に、回廊を歩くときに足元から感じた温かみや、中庭を見たときの光だったりする。展示を「観ていた」というより、その空間で「過ごしていた」という感覚が強く残っている。あの場所には、説明や機能を超えた「その空間にだけ流れている時間」のようなものがあった。その感覚こそが豊かさにつながっていたのではないかと思う。

建築的な視点で言えば、豊かさとは「操作されすぎていないこと」なのかもしれない。過度に意味を押しつけず、壁や家具が語りすぎない。天井の高さや窓の配置が自然で、視線がきちんと抜け、身体が無理なく呼吸できるような感覚。その中で、人の思考や行為が自然に立ち上がる余地が生まれる。

例えば、無印良品の家は、そうした思想を住宅に落とし込もうとしている例のひとつだと感じている。必要以上に何かを主張するのではなく、暮らしの側に寄り添い、動線や素材感を丁寧に整える。その設計には、静かな建築家的美意識や倫理観のようなものがある。

ただ、豊かさは決して「整っていること」とイコールではない。例えば東京の下町にある古い喫茶店のように、決してデザイン的に洗練されていない空間でも、心が落ち着くことがある。そこに流れている時間、窓から差し込む光、擦れた床の音。そんな要素の複合が、誰かにとっての「居心地」になる。きれいなだけでは生まれない、そうした空気の奥行きやノイズから立ち上がる感覚もまた、豊かさなのだと思う。

以前、とある建築家が「建築は、身体の記憶を包む器のようなものだ」と話していたのを思い出す。空間に触れることで、人は自分の輪郭を確かめ、そこにいるという実感を得る。つまり、空間の豊かさとは、そこにいる人間の感覚を肯定してくれるような、静かな応答性なのかもしれない。

そう考えると、豊かな空間には単なる広さや整いだけではなく、思考がふと立ち止まるためのわずかな間や、その場所にだけ存在する特有の「時間の流れ」があるのだと思う。

まだ空間の豊かさについて明確な答えを持っているわけではないけれど、これから先も、そうした豊かさを感じる瞬間の記憶や、場所の記憶、それを感じるアンテナはずっと大切にしていきたい。結局のところ、空間の豊かさとは、そこにいる自分自身の感覚をそっと肯定してくれるようなものなのだと思う。