2025.02.21
D2Cブームの次を考える
ある週末、都内を散策しながら、いくつかのD2Cブランドの実店舗を見に行った。洗練された商品や什器、スタッフの程よい距離感、そして商品の脇に掲げられたものづくりのストーリーや工場、生産者の説明。その場にいるだけでブランドの意図が伝わってくるような丁寧な空間設計だった。けれど、ふと立ち止まったとき、頭のどこかで「この形式の退屈さ」を感じてしまっている自分の感情にも気付いた。
D2C(Direct to Consumer)は、確かに熱を持って広がった。中間業者を介さず、顧客との直接的な関係を築く構造。ものづくりの裏側を開示し、価格の透明性を示し、製品への思想を丁寧に語るブランドたちは、多くの共感と信頼を得てきた。
その功績は大きい。消費者とブランドの関係を対等にし、情報の非対称性を正し、作り手の声を届ける文化を広げた。製品を通じて価値観を共有するという体験を、特別なことではなく日常的なものにした。日本でも、スタートアップ発のブランドから老舗のリニューアルまで、D2C的な文脈で語られるものが一気に増えた。
ただその一方で、D2Cという構造やデザインが、今やある種のテンプレートになりつつある感覚もある。ブランドの世界観を語るWebサイト。産地や製法を開示するプロダクト説明。Instagramには共感を誘う言葉と整った写真が並ぶ。ザラつきのあるマットな商品写真、エモーショナルで抽象的な風景写真。どれも美しく、丁寧ではあるけれど、どこかで見たことのある印象がつきまとい、語られる情報や商品の魅力が記憶に強く残らない。
D2Cの限界は、しばしばスケーラビリティやアップサイドの難しさとして語られることが多いが、デザインの視点から言えば、むしろ「語りすぎ/伝えすぎ」にあるのかもしれない。すべての工程やストーリーに説明が添えられ、透明性が徹底されるがゆえに、逆に余白や想像力が奪われていく。情報を開示し尽くした後に残るのは、驚きではなく整理された安心感だ。それだけで人が長く惹かれ続けるには、どこか物足りない。
逆に、D2Cのブームの中で改めて感じるのは、棚の強さやグローバルブランドが持つ「語らない」スタンスの強さだ。たとえばCoca-Cola、RIMOWA、Aesop。そしてAppleもそうかもしれない。彼らは製品情報やコンセプトの説明を最小限にとどめ、そのかわり商品そのものの質感や使い心地、パッケージや香りといった五感に触れる要素が、ブランドを雄弁に語っている。
Coca-Colaは、棚に並んだ瞬間に一目で認知できる赤のパッケージや独特の黒色、そのコントラスト、ロゴの力強さ、そして飲んだ瞬間の喉越しや以前飲んだ記憶そのものがブランド体験になっている。RIMOWAは接客でもVMDでも余計なストーリーを押しつけないが、商品自体のマテリアル、CMF、手触り、使い勝手が無言で物語る。Aesopもまた、商品そのものの香りや洗い上がりの感覚、ショッパーに残る香りの余韻が、自然とブランドの「らしさ」を染み込ませてくる。Appleに至っては、製品のエッジの丸みや起動音、箱を開ける際の微妙な抵抗感までが設計されていて、何も説明されなくても自然とブランドが伝わる。
これらは、ユーザーが商品を「経験」することで、ブランドの物語を自然と受け取る構造を持っている。ブランド自体が語るのではなく、ユーザーの体験が語り出す。その構造こそが、次のスタンダードになっていくのかもしれない。
D2Cの次を考えるとき、今後のブランドは、D2Cのように「語ることで理解を得るモデル」から、「商品の品質や体験が自然と理解されるモデル」へと移行していく気がしている。これは決して新しい戦略ではなく、むしろどれだけ語らなくても伝わるものをどう体験として設計するか、という問いに帰結するのだと思う。説明の量ではなく、接点の質。ストーリーの厚さではなく、五感に触れたときの感覚の残り方。そしてなにより商品のクオリティだ。
ブランドは、最終的には物の確かさによって記憶される。どれほどブランド力があっても、10年前と比べて品質を落としてしまったブランドは確かに存在する。そうしたブランドが将来的にどうなっていくかの答え合わせは、10年後、20年後に必ずやってくる。