コラム

COLUMN:

生成AIとデザインのあいだにある意思

仕事を始めるとき、いつのまにか生成AIがそばにいるのが自然になってきた。(この記事の画像も生成AIで描いてもらった)
リサーチ、情報整理、言語の構造を整えるような工程。かつては頭の中でぐるぐる回していたプロセスを、AIに一旦預けてみる。すると、複数の視点や切り口が、驚くほど早く整って返ってくる。

僕も日々の仕事の中で、生成AIを頻繁に使っている。ときには仮説を出してもらい、場合によってはデザインやクリエイティブにも活用するし、メールや翻訳のサポートをしてもらうこともある。でも、最終的な「判断」は必ず自分でしている、という意識は変わっていない。

それは、AIの案に限界があるからでも、ジェネラルな回答しかできないからでも、まして信頼していないからでもない(もちろんハルシネーションのリスクは理解したうえで)。
むしろ、AIの出力が洗練され、速く、うまくなっている今だからこそ、どこで納得し、どこで違和感を抱き、なにを選び取るか。その判断の質こそが、自分の仕事の中核になってきているように思う。

たとえば、同じようなアウトプットでも、選ぶ言葉ひとつで空気が変わる。
余白を残すのか、あえて説明を加えるのか、意図をぼかすのか、くっきり輪郭を出すのか。
それは、AIがつくった「正しそうなもの」たちの中から、自分がどんな価値を信じているのかを問い直すプロセスに近い。

最近よく思うのは、デザインの本質的な仕事が「つくること」から「選ぶこと」、さらに「選び方の構造をつくること」へと移ってきているのではないかということだ。
生成AIが高速で選択肢を提示する時代において、表面的な選択だけでは、差異を生みにくくなっている。
むしろ、「どういう視点で選んでいるか」「なにを信じて判断しているか」という構造のほうに、人の知性や美意識が現れる。もっと言えば、強い「意思」のようなものがあることが、人の強みでもあるように思う。

だから僕は、AIを使うほどに、自分の輪郭が試されているような感覚を覚える。
AIが優れているということは、僕らがどう判断するかが、より明確に見えるようになるということでもある。

生成AIはデザインの作業を一部代替しつつある。今後もその流れは加速するだろう。
けれど、意志を持って選び、責任を引き受け、意味の流れをつなげていくのは、やはり人間の役割だと思う。

それは、判断という行為が、単なる最終決定ではなく、「何を見て、どう受け取り、どこに進むか」を定める創造行為であるからだろう。