2026.05.28
東急ハンズは何を売っていたのか
渋谷の東急ハンズが閉店するというニュースを見て、少し時間が止まったような気がした。
僕自身はいまの生活の中で、渋谷のハンズに頻繁に通っていない。自転車で5〜10分もあれば行けるのにも関わらず。もちろん、多くの芸大生や美大生と同じく、学生時代は制作のために急いでハンズに買い足しに行くこともあったし、素材やモノからアイデアを得るためになんとなく店に行くこともあった。しかし、現在ではほとんど行くことはない。
必要なものはAmazonで注文する。Amazonになければ、モノタロウや楽天を使う。木材や金属も専門ECがある。車で出かけたついでに、豊洲や郊外の大型ホームセンターに行くこともあるが、ほとんどの場合はネットで購入する。
そんな中でも、ここ最近、偶然にも渋谷のハンズに2度ほど立ち寄ることがあった。新規オープンする店舗の左官作業で必要だった薄いアルミ板材を探したとき、Starlinkのアンテナを設置するためのアングルやクランプを探しに行ったとき。どちらも緊急で駆け込み寺のようなユースケース。とても助かったが、同時に普段の生活で目的地として行く場所ではなくなっていたことも改めて感じた。
しかし、渋谷のハンズのニュースには、単なる店舗閉店以上の心のざわつきがあった。なぜだろうか。
都市の中から、「何かを探しに行く場所」「新しい出会いの場所」「緊急時の駆け込み寺」が消えていく。もちろん、学生時代の記憶やノスタルジーもあるし、店舗がなくなることで緊急時に困る可能性も想像できる。なんとなく訪れて発見や驚きが生まれる場所がなくなったり、外国の友人を案内したくなる「日本らしい場所」がなくなる悲しさもある。複雑な感覚だ。
東急ハンズは、いわゆるホームセンターではなかった。暮らしに必要なものや、売れるものを効率よく揃える店というより、「こんなモノも置いてあるの?」というマニアックな部品や商品に出会ったり、まだ名前のついていない興味や趣味に出会う場所だったように思う。
ハンズの魅力は、気づけば別の階に迷い込み、見たことのない素材や工具や文具を眺めているうちに、何かを作りたくなる、作れそうな気がしてくる感覚を呼び出してくれることにあったように思う。その工具や素材や必要かどうかは現時点でわからない。「何に使うのかは曖昧なのに、何かが作れそうな気がする」という不思議な気持ちを生み出してくれた。
初見殺しの複雑なフロア構成も、魅力のひとつだった。効率的な導線ではなく、むしろわかりにくい。自分がいま何階にいるのか、どの位置にいるのかが分かりづらい。けれど、そのわかりにくさが店を立体的な探索空間と回遊性、ワクワク感を演出していた。
現代の小売は、わかりやすさを求める。検索しやすく、比較しやすく、買いやすく、回遊しやすく、迷わないことが価値になる。忙しい日常において、買い物はできるだけ短く快適で簡単な方がいい。
しかし、かつてのハンズにはその逆の価値があったように思う。迷うことや遠回りすることで、予定していなかった棚の前で立ち止まり、効率から少し外れたところに発見の高揚や驚きがあった。
そして、なにより魅力の本質は、「マニアックなおじさん店員」がいたことだろう。売り場や商品やDIYにやたら詳しい人達だ。AIが情報を瞬時に返す時代に、そうした偏愛を持った「人」の存在が店やブランドの価値になっていたことは、振り返ると少し示唆的でもある。
素材の違いや商品の使い方を説明できる人。学生や素人の曖昧な質問に対して、面倒くさがらずに受け止めてくれる人。ちょっと無愛想だけど、知識量や経験値がすごい人。
客の「未完成」な欲求や衝動に対して、「棚と人がセットで緩やかに応答してくれる場所」だったのだろう。自分が何を探しているのか、何を作りたいのかをうまく言葉にできない人ですら、東急ハンズは受け止めてくれた。
東急ハンズが売っていたのは商品だけではなかったのだろう。自分の手で何かを作れるかもしれないという感覚。人間のクリエイティブやクラフトに対する欲求、そしてモチベーションの源泉、初期衝動や高揚、刺激や発見。その贅沢な時間と空間を提供していたのかもしれない。
素人もプロも、学生も主婦も、個人的で静かな高揚や衝動をそこで受け取っていた。ひとりで棚の前に立ち、用途のわからない部品を眺めながら「何かができそう」だと思う。作りたい欲求が生まれる。そんな体験や価値を売っている小売は、東急ハンズにしかなかったのではないだろうか。
しかし、その高揚や興奮は、なぜ薄れていったのか。
単純にハンズが悪くなったからではない。おそらく社会側が変わった。かつてハンズの店内に凝縮されていた価値が、外側に分解されていったのだと思う。
例えば、探すことはGoogleやYouTube、XやInstagramのようなSNS、買い物はAmazon等が担うようになった。安く手軽に買うことは100円ショップやEC、大量に揃えることは郊外型ホームセンターが、学ぶことや興味の入口はYouTubeやSNSが担うようになった。
東急ハンズには、探す、知る、聞く、試す、買う、作る、という行為がひとつの店舗の中にあった。いまは、その機能が最適化された別々のプラットフォームに分かれている。便利になった代わりに、偶然の密度は少し薄くなったように思う。
加えて、東急ハンズがカインズに買収されたことを、「悪い転換点」として単純化するのも正確ではない。旧来のハンズは、買収以前からすでに難しい状況にあった。カインズによる買収は、市場の変化に対する経営上の処方だったのだ。そしてカインズ側も、都市部の大型店を持っておらず、戦略的に都市部に入り込んでいくための買収だったはずだ。カインズの商品開発やロジやDXのナレッジをハンズに提供し、ハンズの商圏をカインズが得る。
物流を整え、仕入れやオペレーションを効率化し、商品開発を強化し、デジタル基盤を整えることは事業の意思決定として正しい。しかし、その処方は旧ハンズの魅力そのものを回復するものではなかった。
そもそも、渋谷のハンズにあった魅力は、むしろ非効率さの中にあった。合理化によって店は運営しやすくなるかもしれないが、必ずしも記憶に残る店になるわけではない。合理化によって救えるものと、合理化の過程で薄まるものがある。
買収で社名が「東急ハンズ」から「ハンズ」になり、ロゴが変わったとき、多くの人が感じた違和感もその延長線上にあったのだと思う。nendoによる新しいロゴは、デザインとして大きく破綻しているわけではない。むしろ整理され、現代的で、扱いやすい。原点である「手」を漢字で表し、ハンズグリーンを継承した点も、コンセプトや理屈として十分理解できる。
しかし、こういったロゴの扱いやすさや合理的な判断は、旧ハンズの持っていた記号性やブランドを薄めたようにも見えた。
昔のハンズのロゴには、少し野暮ったいが、しかし妙に忘れられないロゴの強度があった。洗練されすぎていないこと。均質ではないこと。売り場にもロゴにも、都市の中で異物や異世界としての強いブランドイメージを立ち上げている感じがあった。しかし新しいロゴは、その異物感を整理し、より一般的で、より扱いやすい「生活雑貨チェーン」のような平凡な顔に近づけたように見えた。
ブランドは単に美しければよいわけではない。ときには扱いにくさや不均一性、過剰さが、そのブランドの記憶を支えている。とくにハンズのように、偏愛や探索や手仕事の感覚を抱えてきたブランドにとって、多少のノイズは欠点ではなく資産だったのではないだろうか。
また、渋谷店の閉店を「企業の終わり」や「渋谷の終わり」として語るのも正確ではない。ハンズという会社は続いているし、事業として再編されている。閉店理由も公式には賃貸借契約満了だ。これからも、カインズとハンズのシナジー効果で新しい価値を生み出し、新しい顧客を掴んでいくだろう。街もニーズに合わせて変容していく。
だから、「ハンズは終わった」「渋谷は終わった」と単純に言うべきではない。少なくとも、いまのハンズや渋谷を見ないまま、そのように断定することには少し慎重でありたい。
しかし、渋谷のハンズが閉じることには強い象徴性がある。池袋店や藤沢店、名古屋アネックス店がなくなったときよりも、トピックとしての強い象徴性があるように思う。
これはつまり、旧ハンズ的な小売体験の終幕の象徴があるのだろう。都市の中に、巨大で、複雑で、少し非効率で、しかし何かを発見できる場所、ワクワクを買いに行く場所があった時代の終わりである。奇しくも、ヴィレッジヴァンガード本店(1号店)も今月末で閉店する。意味もなく訪れて、店舗を散策し、外の自販機で瓶のコーラを飲んでいた記憶を思い出す。
目的を持たずに訪れてもよかった場所。自分の知らない商品に出会えた場所。やたらと商品に詳しいおじさん店員がいた記憶。誰かの生活と、誰かの趣味、プロや学生の制作と偏愛と狂気が、同じ建物の中で雑然と混ざっていた、東急ハンズ。
2026年、都市や生活は本当に便利になった。COVID-19の影響もあり、アナログだった業界も日本全体も、いっきにデジタルが進んだように思う。必要なものは、ほとんど迷わず手に入る。
それでも、迷わなくなったことで、私たちは何かを失っていないだろうか。
東急ハンズが売っていたものは、探索の時間そのものや、創造や制作の欲求、モチベーションや衝動との出会いだったのかもしれない。自分が何を欲しいのかを、まだ知らないまま歩ける時間。知らない素材や小さな部品、初めて見るカッコいい工具、誰かの知識に触れ、自分の中の小さな創作の欲求や衝動が立ち上がってくる、贅沢な時間。
その余白というか、贅沢で豊かな、創造的な時間が、都市からまたひとつ消えていく。都市から素敵な本屋がなくなることに近いかもしれない。便利さや合理性を求める中で、それらを惜しむ感覚だけは、まだどこかに残っている。