2026.05.22
かわいいより、かっこいいは難しい
このタイトルを見て、「ああ、わかる」と思う人と、まったくピンとこない人がいると思う。人によっては、「またミシマが面倒なことを言っている」と思うかもしれないし、「かわいいも、かっこいいも、結局は好みの問題では?」と言いたい人もいると思う。
もちろん好みの問題でもある。しかし作り手の側に立つと、そこにはかなり明確な難易度の差があると感じる。
美大や芸大で制作をしていた人、あるいはデザインや建築やアートに真面目に向き合ったことがある人なら、一度は感じたことがあるはずだ。かっこいいものを作るのは、ものすごく難しい。
誤解してほしくないのは、かわいいものを作ることが簡単だと言いたいわけではない。かわいいにも、当然高度な設計がある。丸み、手書き風の文字、ポップで明るい色彩、柔らかい質感、スケールとバランス、意図的なズレやアナログ感。そういったバランスを誤れば、単に子どもっぽくなったり、素人っぽくなったり、安っぽくなったりする。特に日本のデザインやゲーム、アニメ、IP産業などにおいて、「かわいい」は非常に成熟した表現領域でもある。
それでも、かっこいいを作る方が難しいと感じる場面は多い。
端的に結論を言えば、かっこいいには「緊張感」が必要だからだ。
かわいいには、ある程度の不完全さを受け止める余地がある。受け手の間口も広ければ、許容範囲も広い。不完全さは、かわいい世界では愛嬌になることがある。崩れていることが親しみにつながることもある。
一方で、かっこいいはそうはいかない。フォントの選び方が少し甘い。文字組みが甘い。余白が少し広い。ジャンプ率が曖昧。少し説明的すぎる。ビジュアルはいいが、コピーが冗長だったりメッセージに違和感がある。そういった小さな違和感の蓄積が、全体の緊張感を一気に壊してしまう。
かわいいは、少し崩れても味になる。かっこいいは、少しでも崩れるとどこか未熟に見える。
加えて、ここで言う「かっこいい」にも段階があると感じている。
まず、秩序を作ること。例えばグラフィックデザインでは、整列させる。余白を取る。グリッドを引く。要素の大きさを揃える。色数を絞る。情報の階層を作る。これだけでも見た目はかなり整う。デザイナーの入口だ。
次に、統一感を作ること。例えば空間設計では、同じ素材や色で揃える。同じ質感でまとめる。装飾を削り、要素を最小化しミニマルな構成にする。これも基本的には削ぎ落としていけばある程度のかっこよさには到達できる。
でも、それだけではまだ緊張感を内包した、本当の意味でのかっこいいには到達できないと感じる。
整っている。統一されている。ミニマルである。けれど何も記憶に残らない。正直、そういうデザインは街中にたくさんあって、個人的にはもうお腹いっぱいだ。すごく悪いわけではないが、強く惹かれるわけでもない。清潔だし大きな破綻もない。けれど記憶には残らないし、誰かにそれを伝えたいとも思わない。
たとえば、コンクリート打ち放しの天井と壁、ステンレスのカウンター。コーヒーマシンや冷蔵庫も統一感のある素材や色で揃えられている。照明は抑えめで、什器は最小限。メニュー表やグリーンも悪くない。素材を絞り、色を抑え、情報量を減らせば、それらしい空間には簡単に見える。
でも、それだけではよくある統一感のある普通の空間で終わってしまう。そこに足りないのは、やはり緊張感なのだと思う。硬質であることと、緊張感があることは違う。ミニマルであることと、緊張感があることも違う。整っていることと、かっこいいことも違う。
ここに、普通のデザイナーと本物のプロとの差が出るのだと感じる。
例えば、安藤忠雄の建築がわかりやすい。安藤さんの建築は、素材だけを見れば極めて限定的だ。コンクリート、光、水、幾何学、余白。使っている要素は多くない(むしろ少ない・最小限)。けれど、その少なさの中に異様な緊張感が存在している。壁の厚み、開口の位置や角度、光の入り方、陰影の深さ、動線や身体感覚。そのすべてが、空間に張りのようなものを生んでいる。
他にも、ピーター・ズントーは素材による空気感の密度のようなもの、ベルナール・チュミは衝突や不協和を意図的に設計に入れて緊張感を生んでいる(同一素材の統一感や秩序から意図的に逸脱して独特の緊張感を作っている)。
モダン建築だけでなく、例えば京都の桂離宮も、静的で落ち着く空間の中にわずかな緊張感が存在している。
原研哉さんのグラフィックにも、近いものを感じる。白い余白、少ない言葉、静かな写真、抑制されたタイポグラフィ。要素だけを取り出せば、これも一見シンプルでミニマムに見える。でも、これを実際にやろうとすると難しい。余白を広く取れば原さんのようになるわけではない。文字を小さくすれば品が出るわけでもない。白くすれば知的に見えるわけでもない。
最小構成で、空気感や緊張感までを平面上に立ち上げる。その精度が、原研哉さんの仕事にはある。東京五輪エンブレムの提案は、グラフィックデザイン・平面構成が持つ、緊張感の最高到達点の一部であったように思う。
余談ではあるが、その最高到達点である緊張感が、あの五輪のデザインに神格性のようなものを生み、原さん以外が触ることができない印象もあった。2010年代からデザインの民主化、デザインプロセスの民主化が進み、デザインの展開性や民主性のようなものがより強くなっていった。そういう意味では少しだけ時代の流れや時代の要求に合致していなかったのかもとも感じている。
話を戻すと、かっこいいものを作ろうとすると、多くの人はまず整えようとする。もちろんそれは正しい。整っていないものは、確かにかっこよくなりにくい。しかし、整えることはあくまで入口にすぎない。整列、余白、統一感、ミニマルさ。それらは必要条件ではあるが十分条件ではないと思う。
かわいいは、相手に近づいていく表現だと思う。受け入れてもらうこと、安心してもらうこと、笑ってもらうことに向かっている。見る側も比較的寛容になれる。
一方で、かっこいいは、少し距離を置く表現だとも思う。こちらからすべてを説明しない。簡単には近づかせない。でも拒絶もしない。その距離にこそ、緊張感が生まれる。
かっこよさは親切すぎると弱くなる。説明しすぎると野暮になる。媚びるとブランドが壊れる。けれど、受け手を突き放しすぎると独りよがりになる。その中間にある絶妙な張り詰めた距離感。そこにこそ緊張感は宿るのだろう。だからこそ、かっこいいを作るのはとても難しい。
かっこいいには、その人やブランドの態度が出る。何を良いとするか、何を避けるか、どこまで説明するのか、どこで黙るのか、何を足さずにいられるのか、どこまで不親切でいることを許せるか。
そうした判断の積み重ねが、最終的に「かっこいい」と呼ばれるデザインやブランド、プロダクトやサービスになる。
しかし、少しでも「かっこよく見せよう」としている雰囲気が出ると、受け手は急に冷める。狙いが見えると途端に安く見えるし、ダサく見える。かっこいいは、かっこよく見せようとした瞬間に壊れ始めることもある。表面的なものは許されない。
この矛盾やバランスと向き合うのが、かっこいいを作る難しさであり、たぶん面白いのだろう。しかし現代は、景気の良かった時代と比べれば予算も少ない、材料費も人件費も高い。その上に、昔よりも効率化や合理性が求められる。安全性や運用性、環境や倫理も昔より当たり前に求められる。デザインや建築やアートは、プロセスも含めて民主化した。
確かに、時代的にはかっこいいものが作りづらい時代でもある。しかしそんな中でも、緊張感を内包したかっこいいものを生み出し、残せるようにしていきたいと感じる。