2026.01.30
ギバーとテイカー。いいギバーと悪いギバー
ここ最近、立て続けに「ギバーだよね」「利他的な人」と言われた。
確かにどちらかといえばそうありたいとは思ってきた。でも「ギバーであること」に囚われているわけではなく、結果的で副次的なものだと思う。誰かが困っていれば手を貸すし、できれば人の役に立ちたい。そうすることで、関係や進捗が前に進む瞬間を何度も見てきたからだろう。
一方で、テイカーと関わって精神が削られた経験もある。相手の気持ちや状況よりも自分の都合や利益を優先する。要求は多いが応答がない。結果、時間や労力を奪われる。いつの間にか自分の役割になったり、自分の成果のように語られたり。そういう人との関係は、精神的にも疲弊するし不必要に時間も奪われる。
それでも、「ギバー=善、テイカー=悪」という二項対立のみで理解しないように気をつけている。(説明の為に便利なので、二項対立を利用することはもちろんあるが)
実際、ギバーとテイカーの立場は簡単に変わる。例えば、あるコミュニティでは与えていた人が、別の場では受け取る側に回る。同じ人間が、状況次第でギバーにもテイカーにもなる。その違いを生んでいるのは本人の意図ではなく、場の空気やコミュニティにおける人間関係の微妙な差分によるものだろう。
ここを誤解すると、「あの人はテイカーだ」と人格の話にしてしまうけれど、実際には構造の問題であることも多かったりする。
それでも、テイカーと長く関わると削られる。特に一方通行の関係が続くと、請け負い役が多くなり時間も奪われる。だから露骨なテイカーとは一定の距離を取る判断も、ギバー側にとっては必要な選択だと思う。一方的に与え続けることだけがヘルシーな付き合い方ではないし、与え続けることが相手に対して誠実だとは思わない。
そして、忘れてはいけないのが「悪いギバー」の存在だ。本人もギバーの自覚があり、先回りしすぎ、余白を埋めすぎて、場や他者の判断力や思考を奪い過ぎる人もいる。結果として、強い依存関係が生まれる。意思や思考が無いテイカーが集まるコミュニティは実際にある。悪いギバーは、テイカーを生み出す土壌にもなりうる。知人友人関係のみならず、親子関係でその構造を見聞きすることもある。
一方で、いいギバーは違う。与えるが、余白を意識して与えすぎない。必要なところで手を出し、そうでないところでは引く。自分がいなくても思考や行動が回る状態を残して去る。
良いデザインや設計が主張せず、人が自然に動ける流れを残すのと同じだ。デザインにおけるアフォーダンスの考え方とも近いのかもしれない。
僕も、ギバーでありたいと思うこと以上に、その絶妙な境界線を意識するようにしている。知人友人、後輩先輩、自分の親や子供との関係、子育てにおいても重要な考え方だと感じる。
先回りしすぎていないか、与えすぎていないか。自律性や思考まで奪っていないか、を時々自分に問うようにする。いいギバーとは、与え続けることでもなく、与えた量の大小で決まるわけでもない。本当の意味でいいギバーとは、時間をかけて「関係や対象がどう変わっていくか」、「関係の質や長期の関係そのものをおおらかに引き受ける」ことなのだろう。