2026.01.17
正義と悪の境界線。侵略を正当化する大義名分
戦争は、いつも「大義名分」を必要としている。
国民の生命と自由を守るため、地域の安定を回復するため、テロリストに厳しい報復を加える、社会秩序や正義のため。大義名分はそれぞれ違っても、抽象化すればその構造は似ている。
2026年のはじまり。1月2日米国時間の深夜、アメリカによるベネズエラ本土攻撃と大統領拘束があった。
ロシアのウクライナ侵攻、中国が示す台湾への強硬姿勢と危惧される台湾有事。個別の事情や歴史的背景が存在することは承知だ。だけど、武力によって土地やエネルギーを得ることは、どこまで許されるのだろうか。僕は今回起こったことに対して否定的な立場だ。
危ういのは前例が生まれることだと思う。アメリカが「大義名分のため」に武力による攻撃と大統領拘束を成功させたなら、それは他国にとっても強烈なリファレンスになる。中国はそれを台湾に重ねるかもしれないし、ロシアは自らの行為を正当化する材料にするかもしれない。歴史は、「前例が模倣される力」を何度も示してきているように思う。
このような社会・経済情勢に対して、デザインは何ができるのだろうか。
正直に言えば、デザインで戦争や侵略を止めることはできない。政策決定の場に直接介入できるわけでもない。だが、無力ではないとも思っている。
デザインが扱うことは抽象化すると、「どう見えて、どう理解し、どう行動するか」という領域だ。戦争はミサイルやドローンだけでなく、言葉とイメージでも遂行される。単純化された物語、分かりやすい敵、感情を煽る構図。ある種、それらはすべて意図的に設計されている。
デザイナーができることは、それに加担しないことでもある。雑な言葉を雑なまま流通させない。二項対立に収束しない構造を示す・可視化する。複雑さや文脈を削らずに提示する。すぐに態度変容に持ち込むデザインではなく、立ち止まらせるデザインを選ぶ。
マーケティングがアテンションエコノミー的であるなら、デザインはカーム・テクノロジー(穏やかな技術)的であるべきだろう。つまり、マーケティングが常に「見て!聞いて!」と叫ぶのに対し、デザインは「必要な時だけ現れ、それ以外は存在感を消す」というカーム・テクノロジー的な思想を取り入れるべきと思う。戦争や政治はマーケティング色が強い(特にアメリカはマーケティング大国だから余計にそう感じることもある)
なにより、アテンションは短期的だが、信頼は長期的だ。デザインは短期的な関係を構築するものではなく、本来、人と人、人とモノの長期的な信頼関係やエンゲージメントを生み出すためのものである。
一方で、地味で即効性もないコトだとも思う。でも、前例に抗う力は、民衆の地味な活動に宿る。
「武力で奪えば欲しいものが手に入る」という構造が当たり前になる前に、問いを生み出すこと、別解を提示すること、そして文脈や言葉を丁寧に残すこと。それが、デザインや設計という仕事に残された小さな倫理であり責任だと思う。